埤雅
辞典
成立
編集→「陸佃」も参照
『宋史』陸佃伝によると[1]、陸佃は字を農師といい、越州山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)の人であった。王安石の門人であり、王安石の改革には必ずしも賛成でなかったが、改革が失敗に終わった後も忠誠をつくした。神宗・哲宗・徽宗に仕え、官は尚書左丞にのぼった。なお、陸游は陸佃の孫である。
陸佃の没後、子の陸宰によって宣和7年(1125年)に書かれた『埤雅』の序文によれば、陸佃は『詩経』中の動植物(名物学[2])に関する深い知識があった。北宋の神宗が熙寧年間に科挙の改革を行い、試験範囲から詩賦を除いて経学を主とするようになって以降、陸佃の講義は人気が高まった。陸佃はその内容を書物にすることを提案し、まず説魚・説木の2篇を神宗に進上した。はじめ書物は『物性門類』という題であったが、完成前に神宗が崩御した。その後、陸佃は40年をかけて書物を改訂し、『爾雅』の補佐となる書物という意味で『埤雅』と名づけた。
『直斎書録解題』に『詩物性門類』8巻が見え、著者不明だが、おそらく『埤雅』の稿本であろうと言っている。平安時代の日宋貿易において、仁平元年(1151年)に藤原頼長が宋の商人劉文冲に要望した書物一覧にも、『詩物性門類』と推定される書物が含まれている[2][3]。
構成・内容
編集『埤雅』は、釈魚(2巻)、釈獣(3巻)、釈鳥(4巻)、釈虫(2巻)、釈馬(1巻)、釈木(2巻)、釈艸(4巻)、釈天(2巻)の8篇20巻からなる。総目の巻20の末に「後欠」とあることから、これが完全なものではないのかもしれない。釈馬以外の各篇は『爾雅』にも同じ分類が見える。
項目数は297にすぎないが、『爾雅』と異なり、百科事典的な長大な説明を施している。
脚注
編集- ^ 『宋史』巻343・陸佃
- ^ a b 陳捷 著「経学註釈と博物学の間 江戸時代の『詩経』名物学について」、陳捷 編『医学・科学・博物 東アジア古典籍の世界』勉誠出版、2020年。ISBN 978-4-585-20072-7。246頁。
- ^ 『宇槐記抄・中』仁平元年(1151年)9月24日
- ^ 『四庫全書総目提要』 巻40・埤雅 。「然其詮釈諸経、頗拠古義。其所援引、多今所未見之書。其推闡名理、亦往往精鑿。謂之駁雑則可、要不能不謂之博奧也。」