坂野鉄次郎
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日[1] - 1952年(昭和27年)6月5日[2])は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)[3]、実業家。
坂野鉄次郎 さかの てつじろう | |
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生年月日 | 1873年11月14日 |
出生地 |
日本 岡山県津高郡菅野村 (現・岡山県岡山市北区) |
没年月日 | 1952年6月5日(78歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法科大学政治科卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 中国合同電気社長 |
称号 | 正四位 |
配偶者 | 坂野亀代の |
子女 | 長男・坂野常礼 |
岡山県野谷村長 | |
在任期間 | 1929年7月23日 - 1931年9月4日 |
在任期間 | 1932年9月29日 - 1947年5月2日 |
経歴
編集岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身[4]。岡山県士族・坂野半四郎の長男[1][3][5][6]。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した[1][3][5][6]。
逓信省通信局に入る[3]。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた[1]。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた[3]。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた[3]。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた[3]。その後逓信書記官・関東都督府参事官、東京郵便局長、大阪逓信管理局長、西部逓信局長を歴任した[1]。
1915年(大正4年)に退官した後は、大阪電灯常務取締役を務めた[3]。その後、藤田組理事を経て、中国合同電気社長を務めた[3]。
県下の多額納税者に列し[6]、1932年(昭和7年)9月29日、貴族院議員に選出され[7]、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
その他、山口電灯取締役、大阪亜鉛鉱業取締役、鳥取電灯社長、片上鉄道社長、大神中央土地監査役、姫路電球相談役、京都競馬倶楽部監事などを務めた[1][3]。
人物
編集1928年(昭和3年)、家督を相続した[5]。趣味は囲碁[6]。宗教は仏教[6]。住所は大阪市東区北新町[1]、同市住吉区天王寺町[5]、岡山県津高郡野谷村[3][8]、岡山市富田町[6]。
栄典
編集家族・親族
編集- 坂野家
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第5版』さ69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
- ^ a b 議会制度七十年史 1960.
- ^ a b c d e f g h i j k 『財界二千五百人集 本編』503頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
- ^ 坂野記念館(津高観光協会)
- ^ a b c d 『帝国大学出身名鑑』サ59頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第11版 上』サ134-135頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
- ^ 『官報』第1727号、昭和7年9月30日。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第10版 上』サ92頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月6日閲覧。
- ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
- ^ a b 『豪閥 地方豪族のネットワーク』385 - 393頁。
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
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