坂上是則
日本の歌人
坂上 是則(さかのうえ の これのり)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。右馬頭・坂上好蔭の子。官位は従五位下・加賀介。三十六歌仙の一人。
坂上是則(狩野尚信『三十六歌仙額』) | |
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 延長8年(930年) |
官位 | 従五位下・加賀介 |
主君 | 宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 坂上氏 |
父母 | 父:坂上好蔭 |
子 | 望城 |
経歴
編集908年(延喜8年)大和権少掾次いで大和大掾に任ぜられる[1]。912年(延喜12年)少監物に転ずると、中監物・少内記を経て、921年(延喜21年)大内記と醍醐朝中期は京官を歴任した[1]。
人物
編集『寛平后宮歌合』や『大井川行幸和歌』など、宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった[1]。『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首が入集[2]。家集に『是則集』がある[1]。
また、蹴鞠に秀でていたらしく、延喜5年(905年)3月2日に宮中の仁寿殿において醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、そのとき206回まで続けて蹴って一度も落とさなかったので、天皇はことのほか称賛して絹を与えたという[1][3]。
『小倉百人一首』31番に「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(『古今和歌集』冬332)」が入集している。
官歴
編集『古今和歌集目録』による。