土肥省三
土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - 没年不明)は、長野県出身の元プロ野球選手(内野手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1918年 |
身長 体重 |
170 cm 63 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1939年4月2日 |
最終出場 | 1940年12月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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来歴・人物
編集長野商業(現・長野県長野商業高等学校)在学中は、甲子園大会に3回出場(内訳は春1回〔1932年〕。夏2回〔1932年、1934年〕)。最高成績は1932年春・夏のベスト8。長野商卒業後、専修大学に入学するも、程なく中退。社会人野球の強豪・藤倉電線に入部し、1938年の都市対抗野球大会でのチームの優勝に貢献した。
1939年3月10日に阪急軍に入団。同年4月2日の大阪戦(後楽園球場)でプロデビューを果たすが、7回裏一死に2-2の同点の場面で松木謙治郎の打ったゴロ処理を失策し、相手に決勝点を与えるなど、散々だった。その後、シーズン終盤まで出場機会は無かった。
翌1940年4月6日の南海戦(西宮球場。32-2で勝ち、プロ野球歴代最多得点記録を樹立した試合)では、5回表に両軍併せて唯一の2ランホームラン(土肥にとっても生涯唯一の本塁打)を左翼席にたたき込み、4得点(黒田健吾・山下好一に次ぐチーム3位の得点数)の活躍だった。しかし、失策数こそ多くないものの肝心な所で失策し、チームを敗戦に追いやる(例.4月21日の名古屋戦〈鳴海球場〉)など守備に不安を抱えており、また打撃も低調だったことから、1940年限りで阪急を退団した。
その後は再び社会人野球の世界に転じ、明電舎,第一法規(長野法令)の野球部に所属した後、1956年には電電信越の監督を務めた。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1939 | 阪急 | 7 | 20 | 16 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 3 | -- | 0 | 0 | 3 | -- | 1 | 6 | -- | .125 | .300 | .125 | .425 |
1940 | 27 | 76 | 66 | 5 | 8 | 1 | 0 | 1 | 12 | 8 | 0 | -- | 1 | 0 | 9 | -- | 0 | 12 | -- | .121 | .227 | .182 | .409 | |
通算:2年 | 34 | 96 | 82 | 8 | 10 | 1 | 0 | 1 | 14 | 9 | 3 | -- | 1 | 0 | 12 | -- | 1 | 18 | -- | .122 | .242 | .171 | .413 |
背番号
編集- 23 (1939年 - 1940年)
脚注
編集関連項目
編集- 長野県出身の人物一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 個人年度別成績 土肥省三 - NPB.jp 日本野球機構