国医師(くにいし)は、律令制下に設けられた医師。国ごとに1名ずつ任命された。

概要

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律令制で諸国に1名ずつ置かれ、教師として、国司の監督の下で国学の医生(いしょう)の教授を担当した。任国では部内巡行や、四度使として、任国の行政にも参画したという。

選叙令によると、式部省の判定による現地採用を原則とし、場合によっては隣国からの採用もやむを得ないとしていたが、人材難のため、中央の典薬寮の医生などから任命されることが一般化した。詳述すると、

  1. 和銅元年4月(708年)の制では、「朝」(みかど)より遣わし補せられた者の「考選」は史生になずらえると、「土人(くにひと)・傍国(ちかくのくに)」の採用と区別されていた[1]
  2. 神亀5年8月(728年)の太政官奏上では、「博士・医師(くすし)の員(かず)、并(あは)せて、八考(8年間)を以て成選(じゃうせん[2]す」とした[3]。また、この段階では国医師は国ごとに任命されていた。
  3. 天平神護2年5月の太政官の奏上によると、「儒学と医学は学業を成就したものが少なく、人材不足であるため」、医師も数か国を兼任できるようになった[4]
  4. 宝亀10年閏5月(779年)の太政官奏上では病人の救急医療のことも考えて、再度国ごとに1名とされ、「六考(6年間)成選」に変更されている[5]

また、霊亀2年5月(716年)の制には、典薬寮の学生で、修養不足なものについては、国医師に任命してはならぬ、としている[6]

待遇は天平宝字元年10月(757年)の太政官処分により、公廨稲は諸国の史生に準じて1分とされ[7]、ほかも同様であった。当国から選ばれる場合は徭役が,隣国から派遣される場合は課役のすべてが免除され、公廨稲のほかにも職分田6段・事力が支給されていた。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』巻第四、元明天皇 和銅元年4月11日条
  2. ^ 官吏が勤務評定を受けた結果、叙位の資格があると認められること
  3. ^ 『続日本紀』巻第十、聖武天皇 神亀5年8月9日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇 天平神護2年5月11日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第三十五、光仁天皇 宝亀5年閏5月27日条
  6. ^ 『続日本紀』巻第七、元正天皇 霊亀2年5月22日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平宝字元年10月11日条

参考文献

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  • 『岩波日本史辞典』p346、監修:永原慶二岩波書店、1999年
  • 『続日本紀』1 - 5 新日本古典文学大系13 岩波書店、1989年、1990年、1992年、1995年、1998年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)(中)(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1992年、1995年

関連項目

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