因幡国造浄成女
因幡国造浄成女(いなばのくにのみやつこ きよなりめ、生年不明 - 延暦15年10月15日(796年11月18日))は、奈良時代から平安時代初頭にかけての女性。国造浄成女とも呼ばれる。
経歴
編集因幡国造氏の一族で、因幡国高草郡(鳥取市中・西部一帯)の出身[1]。時期は不明だが、朝廷に釆女として貢上され、山部王(山部親王、後の桓武天皇)に仕え、寵愛を受けた[2]。当初は国造浄成女を名乗っていた。
光仁朝において、浄成女は地方豪族出身者としては異例の昇進を遂げた。宝亀2年(771年)正月、正六位上から従五位下に叙せられ[3]、同年2月には同族の者数名と共に因幡国造姓を賜った。この時、「采女」とある。[1]。また、同年12月には因幡国造(令制国造)に任ぜられた[4]。山部親王の即位後も引き続きその寵愛を受け、延暦4年(785年)正月には従四位上に叙せられ[5]、延暦13年(794年)7月には京に屋敷を造営するための稲が与えられた[6]。
浄成女は、延暦15年(796年)10月死去した。最終的な官位は正四位上という顕位にまで叙せられている[2]。一方、因幡国造一族はこれを背景に着実に勢力を増していき、寛弘4年(1007年)の因幡千里(千兼)殺害による勢力の衰退まで権勢を振るったとされている。
官歴
編集『六国史』による
脚注
編集関連項目
編集参考文献
編集- 『続日本紀』4 新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
- 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
- 宇治谷孟訳『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
- 森田悌訳『日本後紀(上)』講談社学術文庫、2006年
- 『日本古代氏族人名辞典』p84 - p85、坂本太郎・平野邦雄監修、吉川弘文館、1990年
- 『日本古代人名辞典』3 - p702、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1966年
- 鳥取市『新修鳥取市史 第一巻』鳥取市、1983年
- 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』平凡社、1992年 ISBN 4-582-49032-8
- 石田敏紀『鳥取県史ブックレット8 古代因幡の豪族と采女』鳥取県、2011年