嘉州
魏晋南北朝時代
編集562年(保定2年)、北周により眉州が分割されて青州が設置された。579年(大成元年)、青州は嘉州と改称された[1]。
『元和郡県志』では南朝梁により設置されたと記載されているが、『北周地理志』[要文献特定詳細情報]では北周により設置された青州を改めたものとし、また『輿地紀勝』でも別資料を引用して同様の記載があり[2]、両者は別の存在であることが考証されている。
隋代
編集583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、嘉州の属郡の平羌郡は廃止された。605年(大業元年)、嘉州は廃止され、属県の平羌県は眉州に移管された。
唐代
編集618年(武徳元年)、唐により眉山郡は嘉州と改められた。742年(天宝元年)、嘉州は犍為郡と改称された。758年(乾元元年)、犍為郡は嘉州の称にもどされた。嘉州は剣南道に属し、竜游・平羌・峨眉・夾江・犍為・玉津・綏山・羅目の8県を管轄した[3]。
宋代
編集993年(淳化4年)、北宋により眉州の洪雅県は嘉州に移管された。1196年(慶元2年)、南宋により嘉州は嘉定府に昇格した。嘉定府は成都府路に属し、竜游・峨眉・洪雅・夾江・犍為の5県と豊遠監を管轄した[4]。