品川区立伊藤中学校
東京都品川区にある中学校
概要
編集太平洋戦争後の学制改革の実施から「大井地区にも新制中学校を」という地元の声を受け、1947年4月1日付で設立認可が降り、同年5月3日に品川区立原小学校の敷地内に併設開校された後、1949年6月1日付で現在地に落成した新校舎へと移転する。
校名は当初の校舎建設予定地だった、大井伊藤町(現・西大井5-6丁目)に由来する。結局その地に校舎は建たなかったが[1]、校名としてそのまま残った。伊藤町という地名は晩年を大井の地で過ごし、没後この地へ埋葬された伊藤博文に由来し[2][3]、学校章も伊藤家の家紋と同じ「上がり藤」となった。また1950年4月10日には伊藤博文公墓所より門柱と門扉の寄贈を受け、それを正門とした。
2006年2月に品川区が進める教育改革「プラン21」にて、同区立原小学校と共に小中一貫校設置指定校となり、「品川区立小中一貫校日野学園」(現・品川区立日野学園)に続く区内2校目の区立小中一貫校の開校が決定。伊藤中学校開校時とは逆に、今度は原小学校が伊藤中学校の敷地に移転する形で、2007年度に小中一貫校の「品川区立小中一貫校伊藤学園」と称することとなった。
2016年4月、学校教育法改正に伴い、品川区立原小学校とともに正式に廃止され、義務教育学校・品川区立伊藤学園が設置された[4]。
著名な出身者
編集関連項目
編集脚注
編集- ^ 当初は現在の西大井5丁目にある品川区立伊藤小学校近くに校舎を建設する計画だったが、結局適当な用地が確保出来ずに当時の大井滝王子町に残っていた疎開地に建設された。なお、当初立地が計画された大井伊藤町には1954年に品川区立冨士見台中学校が設立された。
- ^ 当地が正式に「伊藤町」の名で呼ばれる様になったのは伊藤博文の没後、大正期に入ってからであり、それまでは現在の西大井5丁目が「篠谷」、西大井6丁目が「谷垂」と呼ばれていた。
- ^ 伊藤博文は現在墓所がある西大井6丁目から800m程東の大井3丁目一帯に広大な土地を有しており、韓国統監府初代統監だった1908年には大日本帝国憲法制定の際に会議場として使用した宮中内の建物を明治天皇から下賜され、それを大井に移築し「恩賜館」と名付け、同年には当時の韓国皇太子を招いた。その建物は現在明治神宮外苑に移築され「憲法記念館(明治記念館)」として結婚式場に利用されている。
- ^ 『品川区立義務教育学校を設置します』(プレスリリース)品川区教育委員会、2015年12月 。2016年4月14日閲覧。