哀公[1](あいこう、生年不詳 - 紀元前434年)は、中国春秋時代の君主。姓は姫、名は驕。

哀公 姫驕
公(周制における爵位は侯)
王朝
在位期間 紀元前452年 - 紀元前434年(『史記六国年表では、紀元前457年 - 紀元前438年
都城 新絳
姓・諱 姫驕
諡号 哀公
懿公
没年 紀元前434年
姫忌

生涯

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晋の昭公の曾孫[2]にあたる。紀元前452年、晋の出公が出奔すると、哀公が晋公として擁立された。紀元前434年、哀公は死去し、子の幽公が晋公として即位した[3]

脚注

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  1. ^ 史記』晋世家による。同書趙世家は懿公とする。
  2. ^ 『史記』晋世家によると、昭公の少子が戴子(雝)、戴子の子が忌、忌の子が哀公(驕)である。『史記索隠』晋世家所引『世本』では昭公の子が桓子(雝)、桓子の子が忌、忌の子が懿公(驕)である。『竹書紀年』では昭公の孫が敬公、敬公の子が哀公(驕)である。
  3. ^ 『史記』晋世家
先代
出公
君主
前452年 - 前434年
次代
幽公