和光大学入学拒否事件(わこうだいがくにゅうがくきょひじけん)は、日本大学で起きた事件。

概要

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大学受験に合格して入学手続きをしていたものの、大学側からはこの人物は世間を騒がせた宗教団体の教祖の子息であったことを理由に入学拒否をされたという事件[1]

この入学を拒否される人物というのは5歳より静岡県内の教団施設に住んでおり、この頃にはひらがなを覚えかけていたが記憶に定着しないで忘れる。小学校には入学したが入学式すら出席していなかった。9歳より小学校1年生の国語の教科書で勉強を始めて、漢字の少ない文章ならば読めるようになる。それから後の1995年に教祖であった父が逮捕された時点では漢字は歳相応には読めたが書くことはできず、他の教科は全く勉強していなかった。それから独学と通信教育で勉強して、大学入学資格を取得して、大学受験をして合格していた。それから複数の大学の入学手続きをしたものの、いずれの大学にも入学を拒否された[1]

この入学拒否をされた人物は、この中で和光大学は許せないと提訴することにした。理由は受験をするにあたって建学の理念を調べてみたところ、和光大学は差別を無くすことを理念として掲げていたため、和光大学でなら自らをカミングアウトできるのではと期待をしていた中で入学拒否をされていたことから[2]

入学拒否をする際には、和光大学の教授の中にも反対をするという声は多く、和光大学の大学生らは何度も学内集会を開いて議論が行われていた。和光大学は自由な気風で知られており、このことからも入学拒否というのは許されないと思われて、このことは何度も新聞雑誌の記事になって表面化されていった。それでも学長は入学拒否という選択をして、それを学長は単に教祖の子息であるから差別したということではなく、苦渋の選択として入学拒否をしていたとする[2]。この苦渋の選択を行った理由は、もし入学させた場合には警備体制をとるなどの措置が必要になり大学としてはそこまで対応できないことと、他の父母から反発されたり翌年以降の受験者が減少することを心配していたためであった[1]

和光大学を選ぶまでには知り合いであった森達也から、大学の教授たちが来れば良いのに、進路に悩んでいるならば力になると言う年賀状を受け取っており、この年賀状が契機となっていた。森は教団関連のドキュメンタリー映画の製作を行っていた。森は何とか入学を認めてほしい、混乱がありえても受け入れないでどうするのか、建学の精神からしても受け入れて欲しい、受け入れなければ大学の汚点になると懇願していたものの受け入れを拒否されていた[3]

この入学拒否をされた人物は和光大学を提訴して、それからの2004年9月1日12月3日口頭弁論が開かれた。この裁判は大学の内部でも大きな議論になり、大学の教授や講師からも公然と批判の声が上がる。和光大学の教授であった最首悟は、三橋修が学長として入学拒否の選択をしたことに抗議をするつもりで次期の学長選挙に立候補することにした。学生の中には学長に直訴をするために学長室を訪れるという人もいた[1]2006年2月20日東京地方裁判所で判決が下され、和光大学が敗訴をして入学拒否をした人物に対して慰謝料を支払うことが確定した[3]

脚注

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  1. ^ a b c d 「入学拒否事件」初の手記。和光大での討論は実現するか”. YAHOO!ニュース. 2024年7月2日閲覧。
  2. ^ a b 教祖の三女から届いたメール”. YAHOO!ニュース. 2024年7月2日閲覧。
  3. ^ a b ここ10年”. 日本脱カルト協会. 2024年7月2日閲覧。