和久宗是
和久 宗是(わく そうぜ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・能書家。祐筆衆。老いて入道、自庵を称す。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文4年(1535年) |
死没 | 慶長20年5月7日(1615年6月3日) |
別名 | 自庵、通称:又兵衛 |
主君 | 三好氏→足利将軍家→織田信長→豊臣秀吉→伊達政宗→豊臣秀頼 |
氏族 | 和久氏 |
父母 | 父:河合氏、養父:和久掃部頭 |
妻 | 和久掃部頭娘 |
子 | 宗昨、是安 |
生涯
編集天文4年(1535年)、三好氏家臣の河合氏の子として生まれる。やがて同じ三好氏家臣の和久掃部頭の養嗣子となり、和久又兵衛宗是と名乗った。和久氏は、先祖が室町幕府に仕え、後に三好氏に属して戦功があったという。
三好氏や足利将軍家に属していた宗是であったが、将軍家衰退に伴い織田信長に仕えた。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると豊臣秀吉へ出仕する。能書家・右筆として文官の職を努めるほか、武勇の士でもあった。同18年(1590年)の小田原征伐の際には、秀吉の側近として、伊達政宗と秀吉の間を取り持ち、政宗のため種々便益を計った。
慶長3年(1598年)、秀吉が没すると宗是は政宗に招かれて仙台へ来仙、2千石を賜り黒川郡大谷邑に住んだ。政宗は宗是を客礼をもってもてなした。
同19年(1614年)10月、大坂冬の陣が起こると、宗是は秀吉の恩願に報いるため、政宗に暇乞いをし大坂へ向かった。やがて、徳川氏と豊臣氏の間で和睦となるが、宗是は和議は一時的なもので再び乱が起こると察し、大坂へ留まった。
翌20年(1615年)4月、宗是の読み通り、大坂夏の陣が勃発。宗是は従者に別れを告げ、老齢のため甲冑の替わりに白綾を着て、兜を被っただけの姿で槍を手にし単騎で徳川勢へ突入、討死した。享年81。