名草豊成
名草 豊成(なくさ の とよなり)は、平安時代初期の貴族。姓は直のち宿禰。名草島守の孫[1]。官位は従五位下・駿河介。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀3年(772年) |
死没 | 仁寿4年8月25日(854年9月20日) |
官位 | 従五位下・駿河介 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 名草直→宿禰 |
出自
編集名草氏(名草直)は紀伊国造の一族。豊成の男系の祖先は宗像氏(宗像直)であり、曾祖父・宗像横根が名草弟日の娘を娶り、所生の島守が養老5年(721年)に母姓を冒して名草姓を名乗ったという[1]。
経歴
編集紀伊国出身。天長7年(830年)大学博士、承和4年(837年)直講を経て、承和8年(841年)外従五位下・助教に叙任される。また承和6年(839年)正六位上の位階にあった際、一族の安成と共に宿禰姓を賜与され、右京四条四坊に貫附されている。承和11年(844年)駿河介に任ぜられるが、年老いていたことから遙任であり、地方官の俸禄をもって教授するための資金に充てたという[2]。
官歴
編集『六国史』による。