同志社大学設立の旨意
同志社大学設立の旨意(どうししゃだいがくせつりつのしい)は、1888年(明治21年)同志社英学校の創設者である新島襄が起草し、新島の依頼を受けた徳富蘇峰が添削した。
徳富蘇峰は自身の経営する民友社の『国民之友』をはじめ日本全国の主要新聞、雑誌において日本初となる私立大学設立への協力を訴えた。
前半で同志社諸学校開設に至る経緯を、後半で今なぜその上に大学が必要なのか、いかなる大学であるべきかを論じている。当時、大学と呼ばれるものは官立の東京大学のみであり、新島はそれに抗して全国の賛同する民間人による自発的結社という新しい組織原理によって大学を創ろうとした。「同志社」とは『志を同じくする個人の約束による結社』を意味しており、新島の理念を表している。[1]
なお、同志社という名前を考え出したのは新島襄ではなく山本覚馬であった。また同志社が大学になる際もいくつかの名前が考えられたが、同志社大学でいこうと結論を出したのは徳富蘇峰であったとされる。[2]
脚注
編集- ^ 「同志社大学設立の旨意」同志社大学の理念とあゆみ
- ^ 「新島襄:同大設立の苦悩「会津生を罵言、関係ノナキ小生」教え子・徳富蘇峰への手紙発見」毎日新聞2012年10月21日
参考
編集- 「同志社大学設立の旨意」を読み解く- キリスト教文化センター「同志社大学神学部教授 原誠」