吉田 賢輔(よしだ けんすけ、1838年天保9年) - 1893年明治26年)10月19日)は、幕末の儒者、幕臣、慶應義塾長。明治期の官僚、教育者、啓蒙者。名は彦信竹里と号し、賢輔は通称である。

吉田 賢輔
人物情報
別名 信彦()、竹里(
生誕 1838年????
武蔵国江戸
死没 東京府
国籍 日本の旗 日本
出身校 古賀塾
子供 吉田弥平(養子)
学問
研究分野 洋学蘭学)、儒学
研究機関 蕃書調所
慶應義塾
主要な作品西洋旅案内』(1867年)
『大日本貨幣史』(1883年)
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経歴

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武蔵国江戸(江戸下谷向原柳御徒町)に幕府徒士・吉田定八郎の子として生まれる。

田辺石庵について程朱の学を修めた後、古賀茶渓に師事。また、添川廉斎に漢学を学んだ。万延元年(1860年)12月に蕃書調所筆記方出仕となり取締を兼任。蘭英書の翻訳をすることとなる。海外の新聞を口訳するのを筆記方が筆記したのちに出版したが、これが日本における新聞の始まりといわれている。

文久2年(1862年)、外国奉行支配書記、慶応元年同支配調役並、同3年儒者勤方に任ぜられた。ここで、幕府外国奉行支配調役同僚の福澤諭吉と懇意になり、『西洋旅案内』などの著書に助力。福沢の弟子・小幡甚三郎の訳書『西洋学校規範』の校正も務める。「窮理」の別名となった「物理」という名を始めて冠したとされる『物理訓蒙』など多くの啓蒙書を執筆。

明治維新後は福澤諭吉を助け、創成期の慶應義塾の漢学教授に就任したが、後に英学を教えた[1]。慶応4年(1868年)に『慶應義塾』を立ち上げるにあたって、福沢の盟友として指導的な役割を果たした人物である[2]。この頃の慶應義塾は福沢、小幡篤次郎、吉田の3名が塾長兼教授の最も高い地位にあったとされ、上杉麻布邸で平田東助内村良蔵曽根俊虎米沢藩甘糟継成を指導。明治2年(1872年)5月頃より慶應義塾の英学教授を兼ねて、米沢藩医の子弟が慶應義塾に学びに来た際、渡辺洪基足立寛と共に、樫村清徳高橋秀松海瀬敏柏原求越などを教えている[3]

その後、尺振八須藤時一郎らと共立学舎を創立し英学指導を行う。明治政府では紙幣頭・得能良介の発案で紙幣史編纂主任として大蔵省紙幣寮に入り、『大日本貨幣史』を編纂。文部省で『日本教育史』、『初学読本』の編修に参画。後に気象学に関する翻訳もした。

1893年(明治26年)10月19日死去。行年56歳。東京青山の教学院に埋葬されている。

交友関係

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主な著書

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脚注

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  1. ^ 慶應義塾同社吉田賢輔,『全集』2,674頁
  2. ^ 『新潮』第1~3号,新潮社,2007年,184頁
  3. ^ 米沢市史編纂委員会『米沢人國記』1983年。 296頁
  4. ^ 『日本開化小史』岩波文庫・昭和9年96頁に「吉田賢輔先生曰く…」とある。
  5. ^ 福沢諭吉事典
  6. ^ 古賀謹一郎 万民の為、有益の芸事御開
  7. ^ 学海日録研究会『学海日録』1991年。ISBN 4000916297 

参考文献

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外部リンク

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