吉田経俊

鎌倉時代前期から中期の公卿。吉田資経の次男。正二位・中納言。後嵯峨上皇の側近。子孫は坊城家・中御門家。子に吉田俊氏(子に定親、経持、定朝、定快(法印、権大僧都)、経円(法

吉田 経俊(よしだ つねとし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿藤原北家勧修寺流吉田家参議吉田資経の次男。官位正二位中納言後嵯峨上皇の側近として活躍。経俊の子孫からは坊城家中御門家が出た。

 
吉田経俊
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建保2年(1214年
死没 建治2年10月18日1276年11月25日
別名 正字:經俊
官位 正二位中納言
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原北家勧修寺流吉田家
父母 父:吉田資経、母:藤原親綱の娘
兄弟 為経経俊高経万里小路資通資継、経海、経尊、藤原親俊
平業光の娘
俊氏俊方坊城俊定中御門経継経世、経誉、経円、吉田経藤室、堀川具守室、中納言貞平室、藤原忠雄室、正親町三条実仲
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経歴

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嘉禄元年(1225年従五位下叙爵。父・資経の極官が参議であったことや、次男であったことなどにより昇進が滞った。嘉禎4年(1238年左衛門権佐に任ぜられ、仁治3年(1242年)に正五位下五位蔵人に補任されるが、兄・為経は経俊が五位蔵人となった29歳で権中納言になっていた。しかし、後嵯峨上皇による院政が開始されると順調に昇進していき、宝治元年12月(1248年1月)に右少弁に任ぜられて三事兼帯を果たす。

建長3年(1251年従四位下に昇叙。左大弁を経て、建長7年12月(1256年1月)に蔵人頭に補任された。建長8年(1256年)に兄・為経の死去を受けて伝奏評定衆となる。また和泉国知行した。正嘉2年(1258年)には参議に任ぜられて公卿に列し、正嘉3年(1259年)に従三位に叙せられた。正元2年(1260年造東大寺長官を兼ね、同年(改元して文応元年)正三位讃岐権守に叙任。弘長2年(1262年権中納言に昇任した。弘長3年(1263年大宰権帥を兼ねるが、以後8年間これを兼帯し続けた。

文永4年(1267年従二位、文永5年(1268年)には正二位に昇叙される。文永8年(1271年)に大宰権帥を辞任して中納言に転じる。文永11年(1247年大嘗会検校を務め、9月には治部卿を兼ねたが、建治2年(1276年)10月18日薨去。享年63。日記『経俊卿記』(吉黄記)が残る。

官歴

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※以下、註釈の無いものは『諸家伝』の記載に従う。

  • 嘉禄元年(1225年)4月26日:従五位下に叙す[1]
  • -年(-年)-月-日:右衛門権佐に任ず。
  • 嘉禎4年(1238年)4月20日:左衛門権佐に転ず。
  • -年(-年)-月-日:正五位下に叙す。
  • 仁治3年(1242年)3月7日:五位蔵人に補す。
  • 寛元4年(1246年)正月29日:新帝五位蔵人に補す。
  • 宝治元年12月8日(1248年1月5日):右少弁に任ず。
  • 宝治2年(1248年)正月10日:蔵人并びに左衛門権佐を辞す。
  • 建長3年(1251年)6月27日:従四位下に叙す。
  • -年(-年)-月-日:正四位下に叙す。
  • 建長6年(1254年)正月13日:左大弁に転ず。
  • 建長7年12月13日(1256年1月12日):蔵人頭に補す。
  • 正嘉2年(1258年)11月1日:参議に任じ、左大弁如元。
  • 正嘉3年(1259年)正月6日:従三位に叙す。
  • 正元2年/文応元年(1260年)-月―日:造東大寺長官を兼ぬ。9月2日:正三位に叙し、讃岐権守を兼ぬ。
  • 弘長2年(1262年)正月26日:権中納言に任ず。
  • 弘長3年(1263年)2月27日:復任(母喪)。3月25日:大宰権帥を兼ぬ。
  • 文永4年(1267年)正月5日:従二位に叙す。
  • 文永5年(1268年)正月7日:正二位に叙す(院御給)。
  • 文永8年(1271年)2月1日:大宰権帥を止む。3月27日:中納言に転ず。
  • 文永11年(1274年)4月28日:大嘗会検校を兼ぬ。5月―日:検校を辞す。9月10日:治部卿を兼ぬ。
  • 建治2年(1276年)10月18日:薨去。享年63。

系譜

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脚注

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  1. ^ 明月記嘉禄元年4月26日条。

出典

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  • 本郷和人「吉田経俊」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年