各務原市立尾崎小学校
岐阜県各務原市にある小学校
各務原市立尾崎小学校(かかみがはらしりつ おざきしょうがっこう)は、岐阜県各務原市尾崎南町三丁目にある公立小学校。
各務原市尾崎小学校 | |
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北緯35度25分26.7秒 東経136度49分48.0秒 / 北緯35.424083度 東経136.830000度座標: 北緯35度25分26.7秒 東経136度49分48.0秒 / 北緯35.424083度 東経136.830000度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 各務原市 |
設立年月日 | 1976年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B121221300045 |
所在地 | 〒504-0003 |
岐阜県各務原市尾崎南町三丁目2番地 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
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概要
編集- 1972年(昭和47年)、岐阜県住宅供給公社により、各務原市の権現山と三峰山の間の山を造成し、大規模団地の尾崎団地の建設が開始される。この尾崎団地の住民のために設置された小学校である。
- 通学区域(自治会名による)は、北洞町(1班~4班)、尾崎北町1丁目、尾崎北町2丁目、尾崎北町3丁目、尾崎北町4丁目、尾崎北町5丁目、尾崎北町6・7丁目、尾崎南町1丁目、尾崎南町2丁目、尾崎南町3丁目、尾崎南町4丁目、尾崎南町5丁目、尾崎南町6丁目、尾崎西町3丁目第1、尾崎西町3丁目第2、尾崎西町3丁目第3・第4、尾崎西町1丁目第1、尾崎西町1丁目第2、尾崎西町1丁目第3、尾崎西町1丁目第4、尾崎西町1丁目第5、尾崎西町5丁目、尾崎西町2丁目第1、尾崎西町2丁目第2、尾崎西町2丁目第3、柄山町、グリーンランド柄山であり[1]、公立中学校の場合の進学先は各務原市立桜丘中学校である[2]。
沿革
編集- 1972年(昭和47年) - 岐阜県住宅供給公社により、造成中の尾崎団地に小学校の建設が着工される。県住宅供給公社が校舎を建て、各務原市が買い取るという立替施行での着工である。
- 1973年(昭和48年) - 建設地(現在の各務原市尾崎西町)に固い岩盤が見つかるなどにより建設が困難となる。そのため、建設地を各務原市那加新加納外6ヶ所大字入会地字前山39ノ1に変更する。
- 1976年(昭和51年)4月6日 - 各務原市立那加第一小学校から分離独立し、各務原市立尾崎小学校が開設される。同時に地名変更により、住所が各務原市那加新加納外6ヶ所大字入会地字前山39ノ1から各務原市尾崎南町3丁目2番地になる。児童数は279人、9学級での開校であった。初代校長は深尾敏子。
- 1976年(昭和51年)7月26日 - プール完成。
- 1976年(昭和51年)12月28日 - 管理棟、特別教室新築。
- 1977年(昭和52年)5月25日 - 山の上の立地条件から風が強く、運動場では常に舞い上がる砂埃に悩まされ、体育の授業にも影響が出ていた。その対策として、運動場部分4500平方メートルに芝生を敷き始め、同時にスプリンクラーを設置。その結果、全国的にも珍しい「芝生の運動場の小学校」としてマスコミなどで取り上げられる。芝生を靴で傷めないようにするため、また児童の健康増進の名目の下、各種体育イベントは児童は裸足で参加するのが恒例となった。
- 1978年(昭和53年)2月26日 - 体育館完成。
- 1978年(昭和53年)4月 - 管理棟に教室を増築。
- 1978年(昭和53年)5月10日 - 芝生の造成を更に3080平方メートル広げ、1周200メートルのトラックゾーン以外のすべての運動場部分が芝生に覆われることになった。
- 1979年(昭和54年)2月24日 - 校歌制定。「みどりの丘に」。和田三里作曲。初代校長、深尾敏子作詞。また、小学校職員から募った作品を岸武雄が補作。
- 1980年(昭和55年)6月25日 - 大規模木造遊具を新設。児童からの公募で「遊び探検島」と命名。
- 1981年(昭和56年)3月 - 校舎東側の職員室棟(一部平屋建て)の2階、3階部分を増築し、新教室をつくる。このころ第2次ベビーブームの影響で児童数が急激に増えつつあった。
交通機関
編集- 那加線・東西線「尾崎南町1丁目」バス停下車
- 尾崎団地線「尾崎ショッピングセンター前」バス停下車
- JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)13番のりば、名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)6番のりばより「諏訪山団地」「各務原高校前」、「テクノプラザ(VRテクノジャパン)」、「三柿野駅前」行き