司馬金龍
経歴
編集東晋の亡命皇族司馬楚之と北魏宗室の河内公主のあいだの子として生まれた。はじめ中書学生となり、入朝して中散となった。拓跋弘が皇太子となると、金龍は太子侍講に抜擢された。後に琅邪王の爵位を嗣いだ。侍中・鎮西大将軍・開府・雲中鎮大将・朔州刺史に任じられた。平城に召還されて吏部尚書となった。484年(太和8年)11月16日、死去した。大将軍・司空公・冀州刺史の位を追贈された。諡は康王といった。
司馬金龍夫妻合葬墓
編集琅邪康王司馬金龍と鮮卑貴族の第一夫人の欽文姫辰の合葬墓が1965年、山西省大同市の東南約6.5km、石家寨村の西南にて現地の農民が井戸掘りの最中に偶然発見され翌年にかけて緊急発掘が行われた。副葬品には保存の良い5幅の漆塗り屏風や大量の陶俑が含まれていた。漆塗り屏風の絵画は『女史箴図』と共通性の高い純漢族風の意匠で、陶俑の多くは遊牧民風の衣装を纏った北族風のものであった。
第一夫人の欽文姫辰は鮮卑禿髪部の出身で父は南涼第三代の君主景王禿髪傉檀の子の禿髪破羌(漢名は源賀)。母は西秦第三代の君主文昭王乞伏熾磐の娘。二人の間に司馬延宗・司馬纂・司馬悦の三人の息子を儲けた。この第一夫人没後に司馬金龍は盧水胡の北涼第三代の君主哀王沮渠牧犍と北魏の太武帝の妹の武威公主のあいだの娘を夫人とし司馬徽亮が生まれた。
妻子
編集妻
編集子
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 張学鋒「墓誌から見た中国北朝時代の民族融合 : 司馬金龍家族墓誌を手がかりとして」『歴史文化社会論講座紀要』第13号、京都大学大学院人間・環境学研究科歴史文化社会論講座、2016年2月、1-11頁、ISSN 1349-2292、NAID 120005723580。