司空馬(しくうば、生没年不詳)は中国戦国時代末期の政治家。呂不韋に仕えたのち、に赴いて幽繆王に仕えるも献策が用いられず職を辞して趙をあとにし、その際趙の辿る運命について予見した。

経歴

編集

秦で呂不韋に仕えた司空馬は呂不韋が秦を追われると、趙に赴きそこで仮の宰相となった[1]

秦が攻めてきた際、司空馬は幽繆王に秦と趙の法から将兵の質や民の貧富に国の治安や宰相に至るまでの両国の国力の差を説き、このままでは趙は秦に勝つことは出来ないため、趙の領土の半分を秦に割譲し、これをもって他の五国に趙が領土の半分を失うことで自国にも秦により滅亡するという危機感を持たせることで幽繆王が盟主として山東の六国合従して秦に対抗すること、これが成れば秦を滅ぼすこともできると献策した[2]

これに対し幽繆王はかつて河間の十二の城を秦に割譲したが領土は減り、趙の兵は弱まったが秦の脅威は強まる一方であり、今また趙の領土を割いて秦に譲ち、その力を強くすれば趙は滅ぶ。別の献策をして欲しいと答えた[3]。司空馬は自らは今まで秦で書記として働いてきて武官としての経験はないが、趙軍の指揮を任せて欲しいと献策した。しかし趙王が司空馬を趙の将軍にすることはなかった。司空馬は自らの計は趙王に不要であるからと職を辞し、趙を去ることにした[4]

司空馬が趙を去るため平原の渡し場を渡ろうとした際、平原津の長官である郭遺が司空馬を労い秦に攻められた趙の未来を問うた。司空馬は趙王は私の策を用いなかったから趙は必ず滅ぶだろうと答えた。郭遺が何時滅ぶかと問うと、司空馬は趙が武安君・李牧を将軍として用いるなら1年は持ち、もしも武安君を殺せば半年持たない。司空馬は続けて趙王のそばに親しく仕える韓倉という人物が賢者を憎み功臣を妬む性質を持ち、今の国の危機に趙王は韓倉の言葉を用いて武安君は必ず死ぬことになるだろうと述べた[5]

その後、果たして韓倉は趙王に李牧のことを讒言し、王は李牧をほかの者と交代させ、さらに韓倉は趙王の使いとして李牧を自害させた。李牧死したのち5カ月で趙は滅ぶ[6]

郭遺は諸公と会うと必ずこの時のことを語り「司空馬の言うとおりになってしまった。司空馬が秦を追われたのは無知であったからではない。また趙を去ったのも愚かだったからではない。司空馬が趙を去り趙が滅んだのは賢者が趙に居なかったからではなく、国を滅ぼしたものに賢者を用いる能力が無かったからだ」と語った[7]

登場する作品と演じた人物

編集

参考文献

編集

脚注

編集
  1. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 文信侯出走,〈鮑本始皇十年免相就國,十二年徙蜀,飲酖死。〉與司空馬〈鮑本不韋吏也。補曰:「與」字疑衍。 札記吳氏補曰「與」字疑衍,是也。〉之趙,趙以為守相。
  2. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 司空馬說趙王曰:「文信侯相秦,臣事之,為尚書,習秦事。今大王使守 小官,習趙事。請為大王設秦、趙之戰,而親觀其孰勝。趙孰與秦大?」曰:「不如。」「民孰與之眾?」曰:「不如。」「金錢粟孰與之富?」曰:「弗如。」「國孰與之治?」曰:「不如。」「相孰與之賢?」曰:「不如。」「將孰與之武?」曰:「不如。」「律令孰與之明?」曰:「不如。」司空馬曰:「然則大王之國,百舉而無及秦者,大王之國亡。」趙王曰:「卿不遠趙,而悉教以國事,願於因計。」司空馬曰:「大王裂趙之半以賂秦,秦不接刃而得趙之半,秦必悅。內惡趙之守,外恐諸侯之救,秦必受之。秦受地而郄 兵,趙守半國以自存。秦銜賂以自強,山東必恐;亡趙自危,諸侯必懼。懼而相救,則從事可成。〉臣請大王約 從。從事成,則是大王名亡趙之半,實得山東以敵秦,秦不足亡。」
  3. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 趙王曰:「前日秦下甲攻趙,趙賂以河間十二縣,地削兵弱,卒不免秦患。今又割趙之半以強秦,力不能自存,因以亡矣。願卿之更計。」
  4. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 司空馬曰:「臣少為秦刀筆,以官長而守小官,未嘗為兵首,請為大王悉趙兵以遇。」趙王不能將。司空馬曰:「臣效愚計,大王不用,是臣無以事大王,願自請。」〈
  5. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 司空馬去趙,渡平原。平原津令 郭遺勞而問:「秦兵下趙,上客 從趙來,趙事何如?」司空馬言其為趙王計而弗用,趙必亡。平原令曰:「以上客料之,趙何時亡?」司空馬曰:「趙將武安君,期年而亡;若殺武安君,不過半年。趙王之臣有韓倉者,以曲合於趙王,其交甚親,其為人疾賢妒功臣。今國危亡,王必用其言,武安君必死。」
  6. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 韓倉果惡之,王使人代。武安君至,使韓倉數之曰:「將軍戰勝,王觴將軍。將軍為壽於前而捍匕首,當死。」武安君曰:「繓病鈎,身大臂短,不能及地,起居不敬,恐懼死罪於前,故使工人為木材以接手。上若不信,繓請以出示。」出之袖中,以示韓倉,狀如振㧢,纏之以布。「願公入明之。」韓倉曰:「受命於王,賜將軍死,不赦。臣不敢言。」武安君北面再拜賜死,縮劍將自誅,乃曰:「人臣不得自殺宮中。」遇司空馬門,趣甚疾,出諔門也。右舉劍將自誅,臂短不能及,銜劍徵之於柱以自刺。武安君死五月,趙亡。
  7. ^   戰國策卷七 秦五 文信侯出走 (中国語), 戰國策黃丕烈札記/秦/五#文信侯出走, ウィキソースより閲覧。  - 平原令見諸公,必為言之曰:「嗟嗞乎,司空馬!」又以為司空馬逐於秦,非不知也;去趙,非不肖也。趙去司空馬而國亡。國亡者,非無賢人,不能用也。