司法官赤化事件(しほうかんせっかじけん)は、1932年(昭和7年)から翌1933年(昭和8年)にかけて、裁判所判事書記などが共産主義活動に関与した疑いにより逮捕された事件。

概要

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1932年(昭和7年)11月12日東京地方裁判所の判事・尾崎陞[1]日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁書記・西舘仁ら4人とともに逮捕された。翌1933年(昭和8年)2月から3月にかけては、長崎地方裁判所の瀧内禮作判事と雇員1人、札幌地方裁判所の為成養之助判事、山形地方裁判所鶴岡支部の福田力之助判事と書記1人も相次いで逮捕された。

逮捕された9人の容疑内容はいずれも「研究会を開いた」「カンパに応じた」「連絡を取り合った」などの行為だったが、日本共産党の目的遂行のための行為とみなされ、判事4人と西舘が起訴。1934年(昭和9年)2月5日から9日まで行われた一審では、転向しなかった西館が治安維持法違反で懲役10年、尾崎が懲役8年などの判決が言い渡された[2]。西館らは控訴、1934年6月30日の二審の判決では西館に懲役8年、尾崎に懲役6年、為成、滝内に懲役3年、福田に懲役2年の判決が言い渡された。一審と比べて減刑されたものの、西館は転向の姿勢を最後まで見せなかった[3]

この事件をきっかけに、蓑田胸喜原理日本社右翼活動家や一部政治家は、司法官「赤化」の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張するようになった。このうち司法試験委員であった京都帝国大学法学部教授・瀧川幸辰への非難が強まったことで、翌1933年滝川事件の発端ともなった。

脚注

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  1. ^ 戦後、自由法曹団幹事長・日弁連人権擁護委員長となり免田事件弁護団長などで活動。コトバンク「尾崎陞」参照(2014年12月20日閲覧)。
  2. ^ 求刑より軽く、尾崎は懲役八年の判決『東京朝日新聞』昭和9年2月11日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p286 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 控訴審判決、一審より減刑『中外商業新報』昭和9年7月1日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p28)

外部リンク

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