古澤良治郎
古澤 良治郎(ふるさわ りょうじろう、1945年9月5日 - 2011年1月12日)は日本のジャズ・ドラマー。モダン・ジャズからフリー・ジャズ、フュージョンと、様々なセッションに参加し、さらにジャンルの枠を超えてフォークやロック分野のミュージシャンたちと数多く共演したほか、作曲も行い、演劇や映画などにも音楽を提供した[1]。
経歴
編集仙台市出身。永く西荻窪に住んだが、終生仙台訛りで喋った[2]。国立音楽大学音楽学部打楽器科を卒業[1]。
在学中からジャズ・ドラマーを志し、この頃から板橋文夫とともに演奏することが多かった[3]。卒業後の1969年に本田竹広のグループに参加し、プロ・ドラマーとしての活動を始めた[1][4]。以降、自らがリーダーのグループをもちながら、山下洋輔トリオ、渋谷毅トリオ、ELBCTRO JAZZ GROUP(本田竹廣、渡辺香津美など)、向井滋春クインテット、本多俊之PROJECT 4、峰厚介クインテットなどをはじめ、数多くのグループ、セッションに参加する。
ジャズ/フュージョン系の活動と並行して、三上寛、加川良といったフォーク系の歌手とのコラボレーションをはじめ、浅川マキ、亀淵友香、吉田美奈子、忌野清志郎、伊藤銀次[5]などのライブやレコーディングに参加した。上々颱風との関わりも深く、アルバム『愛があるから大丈夫』(1993年)と『八十日間亜州一周』(1994年)をプロデュースしている。また、スタジオジブリ制作の映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では、上々颱風とともに音楽を担当し、サントラ盤のほか、イメージ・アルバムのプロデュースも行なった。
1999年、フジテレビの音楽番組『FACTORY』は、古澤の密着取材を行なってドキュメンタリー作品「FACTORY721 introduces 古澤良治郎」を制作した[1]。
2004年、古澤は、藤田傳演出の一人芝居『榎物語』の舞台に俳優として立った[6][7]。
古澤は、晩年まで、ね. 、Ashといったグループを率いて精力的な演奏活動を続け、亡くなる直前の2011年1月4日から7日まで、西荻窪アケタの店で、自ら主催する4日連続のライブイベントに出演していた。古澤は、1月12日昼、虚血性心不全で死去。この日は本田竹廣の命日でもあった[3]。
ディスコグラフィー
編集- YOU WANNA RAIN / 古澤良治郎カルテット+向井滋春 (1975)
- RACCO(ラッコ)/ 古澤良治郎クインテット (1977)
- SPICY ISLANDS/ 古澤良治郎グループ (1978)
- キジムナ/ 古澤良治郎 (1979)
- 12 617.4km 古澤良治郎の世界/ 古澤良治郎 (1980)
- あのころ/ 良治郎バンド&リーオスカー (1981)
- FRIENDLY/ 良治郎バンド&リーオスカー (1982)
- たまには/ 古澤良治郎 (1983)
- 良治郎さんの不思議な散歩/ 古澤良治郎 (1991)
- Better Days of RYOJIRO FURUSAWA/ 古澤良治郎 (1992)
- スタジオ・ジブリ「平成狸合戦ぽんぽこ」サウンドトラック・イメージアルバム [プロデュース作品] (1994)
- ね./ ね. (1996)
- 大往生~もうすぐ死にまっせ/ 古澤良治郎と大往生 (1998)
- Ash featuring 松川純一郎/ Ash (1998)
- SUBLIMATION/ LEE OSKAR WIYH RYOJIRO BAND
- ライオンのいるふうけい/ 古澤良治郎・大口純一郎 デュオ (2002)
出典・脚注
編集- ^ a b c d “追悼 古澤良治郎FACTORY721 introduces 古澤良治郎”. フジテレビ. 2011年12月5日閲覧。
- ^ 羽生一子 (2011年7月9日). “カムイ・トラノ「恩師の軌跡を訪ねて」~羽生一子からの手紙”. 御園ホテル. 2011年12月5日閲覧。
- ^ a b 板橋文夫 (2011年2月4日). “古澤良治郎さん、おつかれさま!”. 板橋文夫. 2011年12月5日閲覧。
- ^ 池上比沙之 (2009年6月2日). “<ジャズを生きる>古澤良治郎・その1”. 池上比沙之. 2011年12月5日閲覧。
- ^ 『ミュージック・ステディ』1983 8月号 No.7(ステディ出版)115~146ページ、1983年8月20日発行
- ^ “古澤良治郎一人芝居”. ねすぱ. 2011年12月5日閲覧。
- ^ ドラムサイズ編集部 (2011年1月17日). “訃報 日本を代表するジャズドラマー古澤良治郎が心不全で逝去”. ドラムサイズ.com. 2011年12月5日閲覧。
外部リンク
編集- 古澤良治郎のホームページ - ねすぱ