古チベット語(こチベットご、: Old Tibetan)は、チベット語文語時代区分において、古典チベット語より前の段階を指す[1][2]吐蕃時代(西暦7世紀-9世紀)のチベットで使用された[3]。実際の記録が残るチベット系諸言語の中では、最も古い言語である[4]。表記にはチベット文字が用いられる。「敦煌文書」の一部として20世紀以降に発見されたチベット語文献や、吐蕃時代の碑文によって代表される[5]

古チベット語
トゥルファンで出土した古チベット語の文献
話される国 チベット
話者数
言語系統
表記体系 チベット文字
言語コード
ISO 639-3 otb
Linguist List otb
Glottolog なし
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歴史的背景

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ヤルルン渓谷英語版(現在のネドン区)に起源を持つヤルルン王朝の王・ソンツェン・ガンポは、西暦7世紀前半にラサに遷都し、さらにチベット高原全域を支配下に置いた。中国の史書において「吐蕃」と呼ばれるソンツェン・ガンポの王国は、その後も領土の拡張を続け、9世紀には、 タリム盆地ヒマラヤ山脈南麓、河西回廊を含む広大な地域を支配するようになった[5]。古チベット語はこの吐蕃帝国の行政において使用された共通語である[3][6]

 
吐蕃の最大版図 (8世紀後半)。

9世紀中頃に吐蕃が崩壊した後も、古チベット語はシルクロードの諸都市における商業と行政の共通語として、11世紀頃まで使用され続けた[7][8]

チベット文字の創成

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インド系文字の一つであるチベット文字は、14世紀のチベットで記された『王統明鏡史英語版』等の後世の史書によると、ソンツェン・ガンポの命でインドに派遣された訳経僧トンミ・サンボータが制定したという[9]。しかし、20世紀になって発掘された『年代記英語版』『編年紀英語版』(敦煌文書の一部) 等、吐蕃時代の史書においては、「トンミ」やその業績に対する言及が見られない[10]。いずれにせよ、『年代記』『編年紀』の記述からは、チベットにおける文字の使用がソンツェン・ガンポの時代に始まったことが窺える[11][12]。なお、チベット文字が使用された現存最古の資料は、760年代に建てられたラサのショル石碑英語版である[5]

 
1949年に撮影されたショル石碑。

武内紹人によると、チベット文字の創成は、国家の統一と行政文書の記録を目的としたものであった[6]。吐蕃は多民族国家であり、その広大な領域にはチベット語を母語としない、イラン系漢民族系の人々なども暮らしていた[12]敦煌文書に含まれるチベット語仏典の大部分は漢語話者により書かれているほか、吐蕃支配下のホータンではイラン系の役人によるチベット語の契約文書等も記された[6]仏教が吐蕃の国教となる8世紀以前にも、編年紀・法令・契約書類など様々なジャンルの文書が著されたが、そこでは定型文が多用されており、武内はこうした規範的文体の存在が、帝国内の非チベット人による古チベット語の使用を促進したと推測している[12]

音韻論

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音素配列

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古チベット語においては、現代のラサ・チベット語において消失した子音連結が、綴り通り読まれていたと考えられる。子音連結はチベット文字の文字構成に反映されている。

ネイサン・ヒル英語版は、古チベット語の音節構造を以下のように模式している[13]

  • C1C2C3G1G2VC4C5
    • C1…/b/
    • C2…/b, g, d, m, s, r, l/
    • C3…全ての子音音素
    • G1…/i̯[注釈 1], r/
    • G2…/w[注釈 2]/
    • V…全ての母音音素
    • C4…/g, d, b, ṅ, n, m, s, ḥ, r, l/
    • C5…/s, d/

子音

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ネイサン・ヒル英語版は、古チベット語の子音体系を以下の表のように分析している[15]

古チベット語における子音音素[15]
鼻音 m n ŋ ṅa
無声閉鎖音 p t k
有声閉鎖音 b d ɡ
無声破擦音/摩擦音 ts s h
有声破擦音/摩擦音 dz z ɣ ḥa
無声流音 hra ཧྲ lha ལྷ
有声流音 r l
接近音 w j y
  • ཅ ཇ ཉ ཤ ཞ <ca ja ña śa źa>の表す子音も、ヒルは独立の音素としてではなく、ཀྱ གྱ པྱ བྱ <kya gya pya bya>ཀ ག པ བ <ka ga pa ba>口蓋化であるのと同様、ཏ ད ན ས ཟ <ta da na sa za>が口蓋化したものとして分析している[14]
  • 無声の共鳴音/r̥/、/l̥/は、単独の文字でなく、それぞれ <ha> <ra> <la> <ha>合字により表される[14]
  • /w/を表すチベット文字 <wa>は、 <ḥa>介音-w-を表す下接字が付いたものに由来し、「狐」を意味する <wa>は、古チベット語においてའྭ <ḥwa>と綴られた[17]

子音音素のうち、/b, g, d, m, s, r, l/はC1ないしC2の位置に立って、C3の子音と共に子音連結を構成することができる (#音素配列を参照)。もっとも、C3が無声阻害音である場合、/b, g, d/も無声子音として実現された[15]。これは現代のチベット系諸言語にも反映されており、例えば天峻アムド・チベット語において、བཤུ <bśu>「剥く」は[ɸɕɘ]བཞུ <bźu>「溶ける」は[bʑɘ]と発音される[15]

C4ないしC5の位置に立つ/b, g, d/は、常に無声音として発音された[15]

母音

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ネイサン・ヒル英語版は、古チベット語の母音として/a, i, u, e o/の5つの音素を認めている[18]

古チベット語では/i/を表す母音記号を逆向きにしたがしばしば用いられる。両者の書き分けは、発音上の区別はともかく、音韻的な対立を反映しているわけではない[18]

形態論

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動詞形態論

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古チベット語では接辞化及び母音交替を用いた動詞屈折生産的に行われた。自動詞では「現在」形と「過去」形の最大2つが、他動詞では「現在」、「過去」、「未来」、「命令」の最大4つが区別された。また、子音交替による自動詞他動詞の交替も行われた[19]

他動詞の語形変化

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以下は4つの語形が区別される他動詞の例である[20]。ここでは「過去」形を形成する接頭辞のb-、「現在」と「未来」形を形成するg-に加え、母音-o-と-a-の交替が屈折に関与している。

語根 現在 過去 未来 命令
√taŋ「与える」 gtoṅ btaṅ gtaṅ thoṅ
√laŋ「答える」 glon blan glan lon

これとは異なる屈折類も存在する。以下の例[20]では、「過去」形がb-...-s (接周辞)、「未来」がb-、「命令」が-sによって形成される。

語根 現在 過去 未来 命令
√skjaŋ「護衛する」 skyoṅ bskyaṅs bskyaṅ skyoṅs
√ri「書く」 ɣdri[注釈 4] bris bri ris
√rim「解体する」 ɣdrim[注釈 5] brims brim rims
√ɬa 「見る」 lta bltas blta lhos/ltos
√no「受け取る」 nod mnos[注釈 6] mno nos

サウス・コブリンは他動詞の屈折類を8つにまとめている[23]。下の表は、8つの屈折類をまとめたものである[24](Σは語幹を、(e)、(o)は互換における母音交替を表す)[25]

「現在」 「過去」 「未来」 「命令」
1 N-Σ b-Σ-s b-Σ Σ(o)-s
2 N-Σ(e)-d b-Σ-s b-Σ Σ(o)-s
3 Σ(e)-d b-Σ-s b-Σ Σ(o)-s
4 g⁄d-Σ(o) b-Σ-s g⁄d-Σ Σ(o)-s
5 g⁄d-Σ(o) b-Σ g⁄d-Σ Σ(o)-s
6 N-Σ(e)-d b-Σ-s b-Σ Σ(o)-s
7 N-Σ b-Σ-s b-Σ Σ(o)-s
8 N-Σ(e)-d b-Σ-s g⁄d-Σ Σ(o)-s

屈折類6, 7, 8では、「現在」形と「未来」形において語幹の頭子音が有声化することが多い[25]

自動詞と他動詞の交替

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以下は自動詞と他動詞の語根が、頭子音の有声性により交替している例である[26]。自動詞、他動詞の語根はそれぞれ語形変化を起こす。

自動詞語根 現在 過去 他動詞語根 現在 過去 未来 命令
√dab「落ちる」 ɣdab
√tab「投げる」
ɣdebs[注釈 7] btab gdab thob
√bab 「落ちる」 ɣbab babs
√pab「投げ落とす」
ɣbebs phab[注釈 8] dbab[注釈 9] phob

こうした自他の交替はシナ・チベット語族の様々な言語に見られる。

古典チベット語との相違

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古チベット語と古典チベット語は、SOV型基本語順や、後置詞を用いたの標示といった類型論的特徴を共有する一方[28]、綴りや語彙を中心に相違点も認められる[29]正書法の面における両者の変化としては、以下のようなものがある[30][31]

  • 有気音・無気音の一貫した区別。
  • my{i, e} > m{i, e}
    • མྱི <myi> > མི <mi>「人」
    • མྱེ <mye> > མེ <me>「火」
  • 母音記号 ྀの消失。
  • 再後置字」-dの消失。
  • sts- > s-
    • སྩེལ <stsel> > སེལ་ <sel>「取り除く」

もっとも、こうした変化は急激に生じたのではなく、12世紀から14世紀の間にかけて徐々に定着していった[31]

脚注

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注釈

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  1. ^ 音声的には子音の口蓋化を表す。チベット文字ではགཡང <g.yaṅ>「羊」と、གྱང <gyaṅ>「また、そして」のように、གཡགྱが綴字上・発音上区別される。ヒルはགཡを子音連結 (C2C3) /gy/, གྱを/g/ (C3)が口蓋化した/gi̯/として音韻的に解釈している[14]
  2. ^ 古チベット語の介音/w/は、同じく介音となる/i̯, r/に後続する場合がある (例: ཕྱྭ <phywa> /pi̯wa/)[13]
  3. ^ ただし、ཀུན <kun>「全て」、ཅི <ci>「何」、及び一部の借用語 (例: ཅོང <coṅ> (中国語から借用)」) では、語頭に無声音が立つ[16]
  4. ^ チベット文字が表す子音を、Hillは<ḥ>, Jacquesは<N>, Bialekは<ɣ>と転写している(ワイリー方式による翻字は<'>)。
  5. ^ 古チベット語以前の時代に*ḥr- > ḥdr-という音変化が生じたと想定できる[21]
  6. ^ 接頭辞b-は鼻音の前でm-に変化する[22]
  7. ^ 音節末子音-dは-b, -g, -m, -ṅの後で-sと交替する。
  8. ^ 接頭辞b-は両唇音の前で脱落する[22]
  9. ^ 接頭辞g-は両唇音軟口蓋音の前でd-と交替する[27]

出典

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  1. ^ Bialek 2022, p. 10.
  2. ^ Tournadre & Suzuki 2023, p. 181.
  3. ^ a b Hill 2010, p. 111.
  4. ^ Bialek 2022, p. 9.
  5. ^ a b c Tournadre & Suzuki 2023, p. 184.
  6. ^ a b c Takeuchi 2021, p. 305.
  7. ^ Hill 2010, p. 112.
  8. ^ Takeuchi 2021, p. 306.
  9. ^ van Schaik 2011, pp. 49–51.
  10. ^ van Schaik 2011, pp. 51–53.
  11. ^ van Schaik 2011, p. 53.
  12. ^ a b c Takeuchi 2021, p. 304.
  13. ^ a b Hill 2010, p. 121.
  14. ^ a b c Hill 2010, p. 118.
  15. ^ a b c d e Hill 2010, p. 122.
  16. ^ a b Hill 2010, p. 117.
  17. ^ Hill 2010, p. 114.
  18. ^ a b Hill 2010, p. 116.
  19. ^ Bialek 2020, p. 267.
  20. ^ a b Bialek 2020, p. 273.
  21. ^ Hill 2019, p. 17.
  22. ^ a b Hill 2019, p. 9.
  23. ^ Coblin 1976.
  24. ^ Jacques 2012, p. 218.
  25. ^ a b Jacques 2012, p. 217.
  26. ^ Bialek 2020, p. 276.
  27. ^ Hill 2019, p. 24.
  28. ^ Bialek 2022, p. 8.
  29. ^ Tournadre & Suzuki 2023, pp. 190–194.
  30. ^ 西田 1989.
  31. ^ a b Takeuchi 2021, p. 314.

参考文献

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  • Coblin, W. South (1976). “Notes on Tibetan verbal morphology”. T’oung Pao 62: 45–60. 
  • Hill, Nathan W. (2019). The Historical Phonology of Tibetan, Burmese, and Chinese. Cambridge: Cambridge University Press. doi:10.1017/9781316550939 
  • Jacques, Guillaume (2012). “An internal reconstruction of Tibetan stem alternations”. Transactions of the Philological Society 110 (2): 212–224. 
  • Takeuchi, Tsuguhito (2021). “History of Tibetan Language”. In Nagano, Yasuhiko; Ikeda, Takumi. Link Languages and Archetypes in Tibeto-Burman. Institute for Research in Humanities, Kyoto University. pp. 303–323 
  • Tournadre, Nicolas; Suzuki, Hiroyuki (2023). The Tibetic languages: An introduction to the family of languages derived from Old Tibetan. LACITO Publications. doi:10.5281/zenodo.10026628 
  • van Schaik, Sam (2011). Imaeda, Yoshihiko; Kapstein, Matthew. eds. “A New Look at the Tibetan Invention of Writing”. New Studies in the Old Tibetan Documents: Philology, History and Religion (Tokyo: Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies): 45–96. 
  • 西田龍雄 著「チベット語 (歴史)」、亀井孝; 河野六郎; 千野栄一 編『言語学大辞典 第2巻 世界言語編 (中)』三省堂、1989年、746-761頁。 

外部リンク

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Old Tibetan Documents Online: 古チベット語の文献が収録されたコーパス。