厳有院霊廟
厳有院霊廟(げんゆういんれいびょう)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱の霊廟建築。上野寛永寺(東京都台東区上野桜木)に造営された。
建物は豪華な彩色と彫刻で飾られていたが、東京大空襲で大部分が焼失した。
概要
編集江戸幕府第4代将軍・徳川家綱は、延宝8年(1680年)5月8日に死去した。霊廟は上野寛永寺境内北側に設けられた。霊廟の造営は翌延宝9年(1681年)に完成している。なお、戦災をまぬがれて現存する奥院宝塔および奥院唐門霊廟は、4年後の貞享2年(1685年)の建立である[1]。1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。1945年、太平洋戦争の空襲で大部分の建物が焼失した。
建造物
編集以下の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されていた。
- 建造物は1930年5月23日指定[2]。
- 厳有院(徳川家綱)霊廟
- 本殿・相之間・拝殿(1棟)
- 前廊
- 中門
- 左右廊 2棟
- 渡廊
- 透塀
- 仕切門
- 鐘楼
- 水盤舎
- 勅額門
- 奥院宝塔(銅造)
- 奥院唐門(銅造)
徳川将軍のうち、4代家綱と5代綱吉の霊廟は上野寛永寺に、2代秀忠、6代家宣および7代家継の霊廟は芝増上寺に営まれたが、「享保の改革」を行った8代将軍吉宗は御霊屋の建立を禁止した。このため、吉宗以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀されるようになり、奥院の宝塔のみが新設されるようになった[3]。なお、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔は増上寺、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の宝塔は寛永寺にあり、15代慶喜の墓は谷中霊園に隣接する寛永寺徳川家墓所にある。
戦災被害とその後の変遷
編集霊廟は1945年3月10日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の13棟のうち、勅額門、水盤舎、奥院宝塔、奥院唐門を除く9棟が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された[4]。
焼け残った勅額門、水盤舎、奥院宝塔および奥院唐門、並びに附(つけたり)指定の浚明院宝塔および文恭院宝塔は、1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。
焼け残った重要文化財指定の建造物は、1963年の官報告示で以下の2件に分割された[5]。
- 厳有院霊廟勅額門及び水盤舎 2棟
- 勅額門
- 水盤舎
- 厳有院霊廟奥院 2棟
- 奥院宝塔
- 奥院唐門
- 附 浚明院宝塔
- 附 文恭院宝塔
上記のうち「勅額門及び水盤舎」は寛永寺の所有、「奥院」は個人所有である[5]。
脚注
編集- ^ 文化遺産オンライン
- ^ 昭和5年5月23日文部省告示第161号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『徳川家霊廟』pp.89 - 90
- ^ 昭和24年10月13日文部省告示第181号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 昭和38年2月13日文化財保護委員会告示第5号
参考文献
編集- 文化庁編『戦災等による焼失文化財 増訂版 建造物編』、便利堂、1983年
- 文化庁編『国宝・重要文化財建造物目録』、第一法規、1990年(「指定解除」の項)
- 港区立港郷土資料館編・発行『徳川家霊廟』(特別展図録)、2009年