厚母元総
厚母 元総(あつも もとふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は厚母元員。安芸国の戦国大名・毛利元就の同族。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正20年8月17日(1592年9月22日) |
別名 | 通称:又次郎→七郎兵衛 |
戒名 | 珠岸宗玉 |
主君 | 毛利輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏流厚母氏 |
父母 | 父:厚母元員、母:毛利元種の娘 |
兄弟 | 元総、女(田原氏室) |
妻 | 山田石見守の娘 |
子 |
元知、女(村上氏室) 養子:頓野就忠、頓野就房 |
出自
編集毛利元春の次男である毛利元房を祖とし、元房の子・元光の代から大内氏の麾下に属して、長門国豊西郡厚母郷[1]などに所領を与えられた。元光以降は元秀、元貞、元種、元員、元総と系譜が続く。
生涯
編集永禄11年(1568年)2月12日に毛利輝元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元総」と名乗った。
天正14年(1586年)4月6日、祖父・元種の譲状の旨に従って、輝元より父・元員と連名で長門国豊西郡厚母郷[1]100石の内の70石、長門国美祢郡於福郷上田代村[2]10石、厚母郷内の国衙の諸名田中の名主職などを安堵される。
天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役に従軍し朝鮮へ渡海したが、同年8月17日に戦死した。元総の戦死により、幼少の嫡男・元知が後を継いだが、幼少であることを理由に所領を輝元に没収された。
また、かつて祖父・元種が毛利元就・隆元父子に自家の系図を献上する代わりに与えられた、裏書に元就と隆元の署名のある系図の写しが、元総の戦死の際に紛失している。