千頭久米夫
千頭 久米夫(ちかみ くめお、1922年12月3日 - 没年不明)は、福岡県出身の元プロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手、外野手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1922年12月3日 |
身長 体重 |
164 cm 58 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手、外野手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年3月11日 |
最終出場 | 1954年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に2回(春1回〈1940年〉、夏1回〈1940年〉)出場。1940年春の大会ではベスト4まで進出した。福岡工時代のチームメイトに、上野義秋,大崎憲司,伴勇資(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。
福岡工業卒業後は、社会人野球のチームを転々とした。藤倉電線→西日本鉄道硬式野球部→豊岡物産→日本コロムビアと所属し、都市対抗野球大会や日本野球界初の天覧試合(豊岡物産時代)にも出場した。1948年の第19回都市対抗野球大会では、遊撃手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、先述の上野,大崎,伴の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。
1950年にこの年新設された西鉄クリッパースに入団。二塁・三塁・遊撃・外野をこなすユーティリティープレイヤーとして活躍した。1951年9月23日の阪急戦(後楽園スタヂアム)では川口敬次郎から、プロ野球通算5,000号となるメモリアルアーチを放っている(プロ野球記念本塁打一覧参照)。1953年に伴と共に東映フライヤーズに移籍し、翌1954年に引退した。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1950 | 西鉄 | 61 | 139 | 121 | 17 | 28 | 7 | 0 | 1 | 38 | 10 | 3 | 5 | 4 | -- | 14 | -- | 0 | 13 | 0 | .231 | .311 | .314 | .625 |
1951 | 59 | 143 | 135 | 22 | 39 | 6 | 1 | 5 | 62 | 24 | 5 | 1 | 4 | -- | 4 | -- | 0 | 6 | 1 | .289 | .309 | .459 | .768 | |
1952 | 34 | 87 | 78 | 6 | 17 | 5 | 0 | 2 | 28 | 7 | 6 | 4 | 1 | -- | 8 | -- | 0 | 7 | 1 | .218 | .291 | .359 | .650 | |
1953 | 東急 東映 |
66 | 90 | 81 | 9 | 14 | 5 | 0 | 0 | 19 | 3 | 5 | 4 | 1 | -- | 8 | -- | 0 | 16 | 1 | .173 | .247 | .235 | .482 |
1954 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- | |
通算:5年 | 221 | 459 | 415 | 55 | 98 | 23 | 1 | 8 | 147 | 44 | 19 | 14 | 10 | 0 | 34 | -- | 0 | 42 | 3 | .236 | .294 | .354 | .648 |
背番号
編集- 9 (1950年、1953年 - 1954年)
- 2 (1951年 - 1952年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 千頭久米夫 - NPB.jp 日本野球機構