北畠材親
伊勢国の守護大名・公家。伊勢北畠家6代。北畠政具の長男。正三位、権大納言、伊勢国司(知行国主)
北畠 材親(きたばたけ きちか)は、伊勢国の守護大名・公家。伊勢国司北畠家の第6代当主でもある。
時代 | 室町時代後期(戦国時代) |
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生誕 | 応仁2年(1468年) |
死没 | 永正14年12月13日(1518年1月24日) |
改名 | 具方(初名)→材親 |
別名 | 大石御所(通称) |
戒名 | 心江 |
官位 | 正三位、権大納言、伊勢国司(知行国主) |
氏族 | 北畠家 |
父母 | 父:北畠政郷 |
兄弟 | 材親、大河内親忠、星合親泰、田丸顕晴、木造師茂、孝縁、ほか |
子 | 晴具、神戸具盛(楽三)?、大河内頼房(親忠養子)、坂内具祐、星合具種 |
生涯
編集応仁2年(1468年)、第5代当主・北畠政具(のち政郷、政勝に改名)の長男として生まれる。はじめ具方(ともかた)を名乗るが、のちに第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を受けて材親と改める[1]。
若い頃から父と共に二元政治を行い、また父と共に伊勢北部の神戸氏や長野氏らの領土に侵攻して勢力を拡大した。伊勢南部においても、宇治山田の神人層と対立して抗争し、勢威を拡大した。
永正5年(1508年)の父の死去により、家督を継いで当主となる(実際にはかなり前に譲られていたとの説もある)。この際、伊勢守護職に任じられた[2]。
永正8年(1511年)、病を理由に剃髪し、家督を嫡男の晴具に譲って飯高郡大石村に隠居した。
永正14年(1518年)12月13日に死去。享年50。
人物
編集儒学に通じた文化人である一方、仏教に深く帰依した信心厚い人物でもあったといわれている。
出典
編集関連項目
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