北小路俊昌
江戸時代後期の公家、明治期の官僚
北小路 俊昌(きたこうじ としまさ)は、江戸時代後期の公家、明治期の官僚。本姓は大江氏。官位は従五位。男爵。
北小路俊昌 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保7年4月15日(1836年5月29日) |
死没 | 明治17年(1884年)11月22日[1] |
官位 | 従五位、男爵 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 大江姓北小路家 |
父母 |
父:北小路俊文 養父:北小路俊常、北小路俊威 |
兄弟 | 養兄弟:俊方、俊堅、俊長、俊徳、俊親 |
子 |
俊岳、友麿、敷麿 養子:俊茂 |
経歴
編集北小路俊文の子として生まれ、北小路家本家・北小路俊常の五男として育てられる[1]。叔父・北小路俊威の養子となる[1]。
養父の死去により天保14年2月29日(1843年3月29日)家督を継承[1]。孝明天皇の皇子祐宮の蔵人となり、中務大丞に任じられる。祐宮が明治天皇として即位すると堂上家に列し、昇殿を許される。
1868年伊那県知事に就任する。伊那県は当初、県内に流布していた贋二分金を回収するため、豪農商に商社を設立させ、商社札を発行したが、政府が府藩県による私製紙幣の製造停止を命じたため、やむなく禁止されていたオランダ商人からの借り入れを断行し、その返済に税金を流用した伊那県商社事件が発生した。北小路はその責任を取らされる形で明治2年(1870年)に罷免された。明治11年(1878年)には宮内省維新前諸儀式取調を命じられる。明治17年(1884年)7月8日に男爵に叙されたが、同年に死去した。
系譜
編集著書
編集- 『北小路俊昌手記』
脚注
編集参考文献
編集- 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 大江姓北小路家(分家)初代 1884年 |
次代 北小路俊岳 |