北アメリカ北東岸の襲撃 (1724年)

1724年の北アメリカ北東岸の襲撃(きたアメリカほくとうがんのしゅうげき、英語: Northeast Coast Campaign)はラル神父戦争中の1724年3月から9月にかけて行われた[1]アカディアワバナキ連邦英語版が現メイン州にあたる地域の海岸、ケネベック川の下流地域、アカディアとニューイングランド植民地英語版の国境地帯で行われ、現ベリック英語版マウント・デザート島英語版の間の海岸にあるイギリスの集落が襲撃された。この地域ではカスコ英語版が主な集落であり、1723年の襲撃の成果によりウィリアム・ダマーは1724年春にブロックハウス英語版への退避を命じた[2]

北アメリカ北東岸の襲撃
戦争ラル神父戦争
年月日1724年3月 - 9月
場所ベリック英語版からセント・ジョージ要塞英語版までの地域
結果:フランスとワバナキ連邦の勝利
交戦勢力
ニューイングランド植民地英語版 フランス王国の旗 フランス王国の植民者
ワバナキ連邦英語版
指導者・指揮官
ジョサイア・ウィンスロー大尉(Josiah Winslow) 
サミュエル・ペンハロー英語版大尉
戦力
625人
損害
死者と捕虜約30人
ラル神父戦争

3月と4月にはイギリスの入植者30人が殺害された。最も重要な戦闘はインディアンとセント・ジョージ要塞英語版に駐留していたジョサイア・ウィンスロー大尉(Josiah Winslowジョン・ウィンスロー英語版の兄)の間の戦闘である。彼は兵士16人とともにホエールボート英語版2隻に分けて川を下っていたところにタランタイン英語版ミクマク族の一部族)に襲撃され、3人を除いて全員殺害された。ジョサイア自身も死亡した[3][4]

続いてアローシック英語版メナスクー要塞英語版サミュエル・ペンハロー英語版大尉が襲撃され、多くの牛が殺害され、3人が捕虜にされた[5]

海上でもイギリスの漁船が襲撃され、ノバスコシアケープ・サーブル島英語版からのミクマク族が襲撃を行い、22人を殺害、23人を捕虜にした[6]

イギリスは報復としてラル神父の殺害を試み英語版、成功した。

脚注

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  1. ^ Tod Scott. Mi'kmaw Armed Resistance to British Expansion in Northern New England (1676-1781). Royal Nova Scotia Historical Society Journal. Vol. 19, 2016. pp. 1-18.
  2. ^ Williamson, William Durkee. The History of the State of Maine: From Its First Discovery, 1602 ..., Volume 2. p. 125.
  3. ^ Williamson, p. 126.
  4. ^ Penhallow, p. 100.
  5. ^ Williamson, p. 127.
  6. ^ Williamson, p. 128; Penhallow, Indian Wars, 1724, p. 103.

外部リンク

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