勢真院

徳川家斉の側室。子に瓊岸院(1790、次女)、竹千代(1792-1793、長男)、綾姫(1795-1797、三女、伊達周宗と婚約)

勢真院(せいしんいん、生年不詳 - 天保6年1月11日1835年2月8日))は、江戸幕府第11代将軍徳川家斉側室。俗名は、または(お万の方[1])、満武[2]

家斉の最初期の側室で、家斉の第一子である淑姫、長男の竹千代(夭折)など、1男3女を生んだ。

生涯

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父は幕府旗本の平塚為善(為喜)[1][注釈 1]。母は松浦信秀[注釈 2]の娘[1]

天明年間、本丸御次となり、のちに御中﨟となる[2]

寛政元年(1789年)3月25日、家斉との間に淑姫(後に尾張藩第10代藩主・徳川斉朝正室)を出産[2][3]。淑姫は家斉の長女(第一子)である。出産後の4月に老女上座格となった[2]

寛政2年(1790年)10月1日に家斉の二女(第二子)を生むが命名前に死去(法名の院号は瓊岸院)[2][4]

寛政4年(1792年)7月13日には家斉の長男(第三子)・竹千代を出産するが[2][5]、翌寛政5年(1793年)6月24日に夭折(法名の院殿号は孝順院殿)[5]。寛政5年(1793年)9月、お万の方は「御内証御方」となる[2]

寛政8年(1796年)7月11日に家斉の三女[注釈 3]・綾姫を出産[2][6]。寛政9年(1797年)閏7月3日、綾姫と仙台藩主・伊達政千代(周宗)との婚約が成立するが、寛政10年(1798年)3月28日に夭折した(法名の院号は麗玉院)[6][注釈 4]

天保6年(1835年1月11日、死去。戒名は勢真院登譽宝岸了智大姉。

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』によれば「為善」であるが、『幕府祚胤伝』では「為喜」とある[2]。平塚家は平塚為広の一族と伝える[1]
  2. ^ 松浦主馬信秀は旗本秋月種封の子で、松浦信福の養子となった人物。
  3. ^ 『幕府祚胤伝』では第八子第四女とする。
  4. ^ 周宗は寛政8年3月2日生まれで、父の死により生後1年足らずで家督を継承することになり、末期養子の手続きを経て藩主となった。のちに綾姫の妹にあたる浅姫を正室に迎えている。

出典

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  1. ^ a b c d 寛政重修諸家譜』巻第千三百四十七「平塚」(国会図書館デジタルコレクション:国民図書版第8輯
  2. ^ a b c d e f g h i 『幕府祚胤伝』七「御内証御方」(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.341
  3. ^ 『幕府祚胤伝』七「淑姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.149。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.347
  4. ^ 『幕府祚胤伝』七「姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.151。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.348
  5. ^ a b 『幕府祚胤伝』七「竹千代君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.151。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.349
  6. ^ a b 『幕府祚胤伝』七「綾姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.153。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.351

参考文献

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