勝野正道
幕末の陪臣
勝野 正道(かつの まさみち、文化5年(1808年) - 安政5年10月19日(1858年11月13日))は、幕末の陪臣。勝野正弘の子。通称・豊作。号は台山。仁科多一郎と変名した。
人物
編集旗本阿部政成の家臣。主に藤田東湖・安島帯刀らの水戸藩士と交わって勤皇活動に従事、幕府の条約締結を批判する。安政5年(1858年)上洛。梅田雲浜・頼三樹三郎らと交流する傍ら、鵜飼吉左衛門・幸吉父子らとともに水戸藩への降勅を謀る。やがて密勅が下ると安政の大獄によって幕府に追われ、水戸藩士大野謙介にかくまわれて水戸郊外に潜伏する。その間、妻子が尋問を受けて処罰されている。しかし正道も潜伏先で没し、大野によって密かに葬られた。
家族
編集脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6