勝覚
勝覚(しょうかく、天喜5年(1057年)- 大治4年4月1日(1129年4月21日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房。立川流の祖仁寛と実運の兄である。
醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺三宝院に住し、1086年(応徳3年)醍醐寺座主に就任し、1092年(寛治6年)に広隆寺、ついで1104年(長徳元年)には東大寺に移った。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられる。度々神泉苑で祈雨法を修し、1120年(保安元年)に少僧都に任じられ、以後東寺長者・同寺法務・同寺寺務を経て権僧正に任じられて東寺別当に至った。弟子には三宝院流の祖定海・理性院流の祖賢覚・金剛王院流の祖聖賢などがいる。
生涯
編集天喜5年に誕生、父は村上源氏である源俊房[1]。当時の村上源氏は俊房とその弟顕房が兄弟で左大臣・右大臣に任じられ、俊房姪(顕房の娘)賢子が白河天皇の中宮になるなど、藤原氏を凌駕する勢いがあった[2][3]。村上源氏の繁栄は、醍醐寺での勝覚の地位確立に影響を与えたとされる[3]。
応徳3年(1086年)6月、定賢から醍醐寺座主職を譲られた[4]。翌7月には義範、嘉保2年(1095年)12月には定賢、長治2年(1105年)12月に範俊から伝法灌頂を受けた[1]。勝覚が創始した三宝院(当初は灌頂院と呼ばれた)の由来は、この三師からの受法に由来したという説がある[5]。永久3年(1115年)11月には、三宝院(灌頂院)を建立[6]。後世、三宝院流の祖と評価されるようになった[7]。
永久4年、座主職を定海に譲った後は、東寺長者のほか、東大寺や広隆寺など七ヵ寺の別当に補任された[8]。大治2年(1127年)には、鳥羽上皇中宮待賢門院の御産祈祷で孔雀経法と牛王加持を行い、雅仁親王が誕生したことから信望を得て、権僧正に任じられた[8]。
大治3年(1128年)6月、醍醐寺に隠遁し、大治4年4月1日に死去[9]。晩年まで醍醐寺の実権を握ったとされる[10]。
弟子
編集弟子は多くいたが、代表的な弟子としては定海・賢覚・聖賢がいた[11]。定海は嫡弟であり、三宝院を継承、勝覚のあとを受けて三宝院流の宗教的基盤を整えた[12]。また、賢覚は理性院流祖、聖賢は金剛王院流の祖とされ、この三つの法流は「醍醐三流」と呼ばれた[11]。
勝覚俗弟である仁覚も、勝覚から伝法灌頂を受けたが[13]、康和3年(1101年)に鳥羽天皇暗殺の嫌疑をかけられ伊豆大島に配流された[14]。そのほか醍醐寺外の僧侶も含めて多くの弟子がいた[13]。
出典
編集参考文献
編集- 中島俊司『醍醐寺畧史』醍醐寺寺務所、1930年。
- 西弥生「三宝院流の創始 - 勝覚・定海とその功績 -」『中世密教寺院と修法』勉誠出版、2008年。ISBN 9784585032069。
- 藤井雅子「権僧正勝覚による三宝院創始とその付法」『研究紀要』第23巻、醍醐寺文化財研究所、2015年。
- 藤井雅子(編)「三宝院権僧正勝覚略年譜」『研究紀要』第23巻、醍醐寺文化財研究所、2015年。