勝俣敏男
勝俣 敏男(かつまた としお、1934年8月26日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー。
Toshio KATSUMATA | |
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基本情報 | |
名前 | 勝俣 敏男 |
生年月日 | 1934年8月26日(90歳) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県 |
経歴 |
来歴
編集1955年にプロ入りし[1]、1959年には約1年間、橘田規と共にアメリカテキサス州へゴルフ留学する[2] [3]。留学の手引きをしたのは、前年の1958年の読売プロに招待されて来日したケン・ベンチュリーとジャック・バーク・ジュニアの二人で、留学の費用を両者が負担[2]。日本のプロゴルフ界にとっては画期的なことで、当時、羽田空港から飛び立ったが、先輩プロの中村寅吉、小野光一らプロ界の大御所が見送った[2]。
1960年の第1回中日クラウンズでは初日の第2ラウンドで小針春芳・中村のベテラン勢と共に通算1アンダーに浮上し首位タイとなるが、最終的には中村・小野・橘田・小針・林由郎・栗原甲子男に次ぐ7位[4]に入った。
1961年には第2回中日クラウンズで加藤辰芳と並んでの10位タイ[5]に入り、九州で戦後初めて開催された日本プロでは生憎の雨でスタートが1時間遅れ、グリーンの所々に水溜りが出来るという悪コンディションの中、棚網良平と並んでの2位タイ[6]でスタートする。
1962年には1月に男児が誕生し、第1回アジアサーキットに参戦[7]。フィリピンオープン開会式では各国の国歌吹奏もあり、君が代を聞いた時は感激[7]。シンガポールオープンでは3日目に67のベストスコアで中村と並ぶ6位に浮上し、最終日には5位に食い込んだ[7]。帰国後の日本オープンでは杉原輝雄・陳清波( 中華民国)・橘田・小針に次ぐと同時に石井迪夫・今井昌雪と並ぶ6位タイ[8]に入る。