加賀谷朝蔵
加賀谷 朝蔵(かがや あさぞう、1886年(明治19年)3月15日 - 1981年(昭和56年)3月3日[2])は、日本の内務・警察官僚、政治家。秋田市長や京都市長を務めた。
加賀谷朝蔵 かがや あさぞう | |
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生年月日 | 1886年3月15日 |
出生地 | 日本 秋田県 |
没年月日 | 1981年3月3日(94歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学経済学科卒業 |
前職 | 京都市助役 |
現職 | 秋田県公安委員長 |
第10代 秋田市長 | |
在任期間 | 1942年9月23日[1] - 1945年9月22日[1] |
第15代 京都市長 | |
在任期間 | 1940年6月8日 - 1942年6月22日 |
経歴
編集秋田県出身。加賀谷長右衛門の二男として生まれる[3]。第二高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し新潟県属となる[4]。
以後、新潟県西頸城郡長、同魚沼郡長、同中蒲原郡長、宮城県理事官、警察講習所教授、岩手県警察部長、皇宮警察長、静岡県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長などを歴任[3]。1935年に退官[4]。
1936年、京都市助役に就任。1940年6月8日から1942年6月22日まで京都市長を務め、横大路ゴミ焼却場の操業開始、京阪電鉄三条・五条間市報償金問題の解決に尽力[5][6]。
1942年9月23日、秋田市長に就任[7]。戦時下の対応に尽力。1945年9月22日に市長を退任[7][8]。戦後、公職追放となる[4]。その後、秋田県公安委員長を務めた[2]。
訳書
編集- アーサー・ウツヅ(Arthur Woods)著『民衆ト警察』帝国講学会、1927年。