加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)12月19日 - 1936年(昭和11年)6月7日[1])は、日本建築家

経歴

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兵庫県明石生まれ。姫路中学、第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工科大学建築学科に進む。

1904年(明治37年)、東京帝国大学を卒業。同年、奈良県技師となり、東大寺大仏殿の修理に携わる[2]。その後、山梨県(県立病院)、辰馬汽船、兵庫県(鶴林寺太子堂修理など)、大分県(県庁)などで業務に従事。1922年に東京市技師、建築課長。翌年関東大震災が起こり、1925年まで震災復興に当たる。東京市退職後は丹羽鋤彦、竹内季一と共同で建築事務所を開設。1931年より加護谷建築事務所を主宰。

浅草本願寺の建設中に亡くなり、遺作となった。

主な作品

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参考文献

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注釈

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  1. ^ 堀勇良『日本近代建築人名総覧』p336。
  2. ^ 大仏殿の明治修理は1909年に解体工事に着手、1913年に完成(1915年落慶法要)。大屋根を支えるため鉄骨トラス構造で補強した。山崎幹泰「東大寺大仏殿明治修理における設計案の変遷について」(日本建築学会計画系論文集、2000年)では、鉄骨の使用は妻木頼黄の発案としている。加護谷は修理事務所の主任を務め、事務所閉鎖の1913年6月に奈良県を休職となっている。