加藤正次 (戦国武将)
加藤 正次(かとう まさつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。竹本正次とも。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 慶長18年8月17日(1613年10月1日) |
改名 | 竹本氏、加藤氏 |
別名 | 喜助、喜左衛門、竹本正次 |
戒名 | 善阿 |
主君 | 織田信長、徳川家康 |
父母 | 養父:加藤正任 |
妻 | 加藤利正の娘 |
子 | 正重、高林吉次室、服部政信室 |
生涯
編集最初は竹本氏を称して織田信長に仕えたが、永禄11年(1568年)伯父加藤利正が徳川家康に仕えていた事からその縁を頼って転仕し、苗字も加藤氏と改める。元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、天野康景と共に味方に紛れた敵兵を倒す武功があった。元亀3年(1573年)従兄の加藤正信が三方ヶ原の戦いで戦死すると、その妹を妻に迎えて家督を継承する。以後は長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐に従軍。天正18年(1590年)武蔵比企郡・上総望陀郡に2000石を与えられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは使番を務める。戦後は京都所司代奥平信昌属下として京都を警固するが、翌年免職・蟄居となった。慶長8年(1603年)までには赦免され、同年の家康上洛に供奉している。