加藤景忠
戦国時代の武将
加藤 景忠(かとう かげただ)は、戦国時代の武将。甲斐国都留郡上野原の国衆。甲斐武田氏の家臣。都留郡上野原城主。父は虎景(駿河守)。初鹿野氏を継いだ弥五郎信昌(昌久)は弟。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正3年5月21日(1575年6月29日)? |
戒名 | 傑宗道英居士 |
墓所 | 保福寺(山梨県上野原市) |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 上野原加藤氏 |
父母 | 父:加藤虎景 |
兄弟 | 景忠、初鹿野信昌 |
子 | 養子:信景 |
略歴
編集初見史料は永禄4年(1561年)で、越後国の上杉謙信の関東侵攻に際し、武田氏と甲相同盟を結ぶ相模国後北条氏は加藤氏に援軍を要請し、景忠は武田信玄から北条氏康のもとへ派遣され、武蔵国由井(東京都八王子市)において在陣している。なお、永禄4年(1561年)頃に父の虎景は死去したと見られ、この頃に家督を相続したと考えられている。
『甲陽軍鑑』によれば、加藤氏は郡内領主の小山田氏の麾下にあったとされ、翌永禄5年(1562年)には小山田氏とともに後北条氏支援のために関東へ出陣している。永禄9年(1566年)12月には現在の上野原市上野原に鎮座する鷲神神社宝殿・牛倉神社本殿の造営を行っている。
永禄11年(1568年)、武田氏の駿河国今川領へ侵攻し(駿河侵攻)、これにより甲相同盟が破綻する。永禄12年(1569年)10月には小山田氏とともに武蔵国滝山城(八王子市丹木町)を攻め、さらに後北条氏の本拠である小田原城(神奈川県小田原市)も攻撃し、三増峠の戦いにおいても活躍したという。その後の動向は不明であるが、天正5年(1577年)以前に死去したと見られている。上野原市保福寺蔵『保福寺過去帳』に記される命日によれば、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死したとも考えられている[1]。 墓所は保福寺(山梨県上野原市)。
備考
編集参考文献
編集- 平山優「加藤景忠」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
- 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年