加藤幸四郎
日本の音楽プロデューサー
加藤 幸四郎(かとう こうしろう、1910年 - 1992年8月21日[1])は、ロシア料理店スンガリーの創業者。音楽プロデューサー。
生涯
編集1910年、京都府にて津田幸四郎として生まれる。ハルピン学院出身。1935年に加藤淑子と結婚し、加藤姓を名乗る。満州国の特務機関員をしていたとの情報がある[2]。ハルビン交響楽団の事務局長を務める。
1945年の終戦の後、日本に帰国する。一時期、日本マーキュリーレコードに勤務する。マネージャーとして藤島桓夫の担当を担う。藤田まことの芸名の名づけ親となる[2]。美空ひばりのオーディションに立ち会うが、年少という理由で保留にし、美空ひばりの所属が日本コロムビアとなる[2]。
1957年、東京新橋にて、ロシア料理店『スンガリー』を創業する。『スンガリー』は、ハルピンの川である松花江の満州語起源のロシア語表記 Сунгари による。当時の料理長は、白系ロシア人であり、ロシア人女性がウェートレスとして働いていた[3]。1958年には、『スンガリー』は京橋に移転し、1960年には、新宿に移転することとなる。
また、1961年に新橋に設立された飛行館スタジオ[4][5](渡辺プロダクションの関連会社)では、支配人を務めている[6][7]。
1965年、娘の登紀子のアマチュアシャンソンコンクールに、父親である幸四郎が書類を出す。加藤登紀子が優勝し、翌年に歌手デビューを果たす。1967年には、スンガリー新宿東口店が実現する。1972年、京都に『キエフ』をオープンさせる。『日本ロシア料理店協会』の設立に関わる。
脚注
編集- ^ 『毎日新聞』1992年8月21日付夕刊 第11面
- ^ a b c 藤島桓夫と加藤登紀子の父 マーキュリーレコード - その19
- ^ ヨコハマな日々 - スンガリー新宿東口本店
- ^ 日本音楽スタジオ協会
- ^ '70s CM History Part.2 音楽・効果音秘話
- ^ 追悼:永六輔さん「民」の目線、まっすぐな人=加藤登紀子 - 毎日新聞
- ^ コラム 中日新聞エンタ目 大けがでも気迫の永六輔さん
- ^ a b 旧満州からの引き揚げ ~知床旅情秘話(7)