加久見 左衛門(かぐみ さえもん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将土佐一条氏の家臣。実名は不明。土佐国幡多郡加久見城主。

 
加久見 左衛門
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 文禄2年9月10日(1593年10月4日
戒名 夢庵貞昨大禅定門
墓所 香佛寺(土佐清水市三崎)
主君 一条兼定長宗我部元親
氏族 加久見氏
華室種梅禅禅定尼
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出自

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加久見氏は古くから幡多郡を根拠としていた国人。土佐一条氏の祖・一条教房幡多荘に下った際、当時の当主・加久見宗孝はこれを迎え入れた。宗孝はその功労によって応仁2年(1468年)12月に一条家家司がしばしば任じられていた土佐守に補任[1]され、近侍していた娘[2]は、教房に愛されて一条房家を生むなど、一条氏傘下の国人領主の中でも特別な地位を占めていたとされる[3]

略歴

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天正元年(1573年)9月に一条兼定を隠居させ兼定の子・内政を擁立し、実権を握った羽生道成為松若狭守安並和泉守ら家老に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門江口玄蕃橋本和泉守らと挙兵、中村を襲撃し家老らを討伐した。しかし、この事が敵対する長宗我部元親の介入を招き、結果的に土佐一条氏の衰亡を早める結果となった。

土佐一条氏滅亡後は長宗我部元親に恭順し、その所領は安堵された。文禄の役(1592年)の際に長宗我部元親に従って渡海したが、病を得て文禄二年(1593年)9月10日、釜山近郊の島で没した。享年44歳[4]土佐清水市三崎の香仏寺に夫妻の供養塔が現存する。[5]

脚注

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  1. ^ 大乗院寺社雑事記』文明元年5月15日条
  2. ^ 教房に同行した町顕郷の養女となる。
  3. ^ 市村高男「海運・流通から見た土佐一条氏」(同編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年)
  4. ^ 皆山集 : 土佐之国史料類纂 第8巻 (民俗(2)・地理(1)篇)』1974年、504頁。doi:10.11501/9769765https://dl.ndl.go.jp/pid/9769765/1/272 
  5. ^ 加久見左近大夫、同夫人墓碑及び三重石塔 - 土佐清水市”. www.city.tosashimizu.kochi.jp. 土佐清水市役所 生涯学習課. 2024年11月10日閲覧。

出典

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  • 『大乗院寺社雑事記』
  • 市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年)ISBN 978-4-86215-080-6