劉開 (漢)
後漢の皇族。河間孝王。
経歴
編集章帝と申貴人のあいだの子として生まれた。90年(永元2年)5月丙辰、河間王に封じられ、楽成郡・勃海郡・涿郡を分割して河間国とした。兄の和帝は章帝のやりかたを踏襲して、兄弟たちをみな京師洛陽にとどめ、官僚たちが諸王の赴任を求めても許そうとしなかった。103年(永元15年)、劉開は和帝の南巡に従った[1]。106年(延平元年)3月丙戌、劉開は河間国に赴任した[2]。劉開は法度を遵守して、官吏や民衆に敬愛された。131年(永建6年)2月庚午、死去した[3]。
146年(本初元年)、孫の劉志(桓帝)が即位すると、劉開は孝穆皇と追尊され、夫人の趙氏は孝穆皇后と追尊された[4]。廟は清廟といい、陵は楽成陵といった。
子女
編集脚注
編集伝記資料
編集- 『後漢書』巻55 列伝第45