劉 諶(りゅう しん/りゅう じん)は、中国三国時代蜀漢の皇族。2代皇帝である劉禅の五男[1]本貫幽州涿郡涿県[2]

劉諶
北地王劉諶
北地王劉諶
蜀漢
北地王
出生 生年不明
幽州涿郡涿県
死去 炎興元年(263年)11月
益州蜀郡成都県
拼音 Liú Chén
主君 劉禅
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生涯

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劉諶(成都武侯祠

景耀2年(259年)6月、北地王に立てられる[3]

炎興元年(263年)11月、鄧艾の軍勢が迫り、劉禅は降伏を決意。劉諶はこれに反対して、「理が窮し、力が屈し、敗北が必至ならば、父子君臣は城を背にして一戦を交え、社稷と共に死し、(あの世で)先帝(劉備)にまみえるべきではありませんか」と述べたが、劉禅は従わずに国を挙げて降伏した。劉諶はこの日の内に、劉備のにおいて哭し、先に妻子を殺してから、自身も自殺を遂げた[4]

三国志演義

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羅貫中の小説『三国志演義』では、劉禅の他の6人の子は懦弱だったが、劉諶だけは聡明・英敏な人物と称えられる。史実以上に魏への降伏に強く反対するが、劉禅によって宮門から追い出される。帰宅して崔夫人[5]に自害の決意を語ると、彼女はこれを「賢哉」と称え、先に柱に頭を打ち付けて自殺。劉諶はさらに3人の子供を殺した後、劉備の廟において自刎し、家族の後を追った[6]


 

脚注

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  1. ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 劉璿伝注『蜀世譜』 s:zh:三國志/卷34#後主太子_璿
  2. ^ 『三国志』蜀書 先主伝記載、祖父の劉備の本貫。s:zh:三國志/卷32
  3. ^ 『三国志』蜀書 後主伝 s:zh:三國志/卷33
  4. ^ 司馬光資治通鑑』魏紀10 s:zh:資治通鑑/卷078
  5. ^ 史書上では妻の名は不詳。
  6. ^ s:zh:三國演義/第118回