劉 磐(りゅう ばん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。荊州劉表の従子。本貫兗州山陽郡高平県[1]

事績

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三国志』呉書 太史慈伝によると驍勇なる武将で、孫策の支配地域である艾・西安などの諸県にたびたび侵攻していた。

そこで孫策は、太史慈を建昌都尉に任じて近隣6県を統治させ、諸将を率いて劉磐の侵攻を防がせた。すると以降は、劉磐の侵攻は影を潜めた[2]

また『三国志』蜀書 黄忠伝によると、劉表の命で黄忠と共に、長沙郡の攸県を守った。黄忠はその後は韓玄、次いで劉備の配下に入ったが、劉磐のその後の動向は不明[3]

羅貫中の小説『三国志演義』では第53回で登場。当時は在野にあったが、劉備が長沙郡を制圧した後、黄忠の推挙を受けて長沙を統治した[4]

脚注

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  1. ^ 『三国志』魏書 劉表伝記載、従父の劉表の本貫。s:zh:三國志/卷06#劉表
  2. ^ s:zh:三國志/卷49#太史慈
  3. ^ s:zh:三國志/卷36#黃忠
  4. ^ s:zh三國演義/第053回