劉升烈
劉 升烈(ユ・スンニョル、りゅう しょうれつ、유승렬)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。本貫は江陵劉氏。創氏改名による日本名は江本烈。学究肌の将軍でその徳を慕う人が多かった。次男に劉載興。朝鮮戦争開戦時の第3師団長。
劉 升烈 | |
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生誕 |
1891年3月9日 朝鮮国忠清南道公州市 |
死没 |
1968年5月18日(77歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
大佐(日本陸軍) 少将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域231号 |
劉升烈 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 유승렬 |
漢字: | 劉升烈, 劉昇烈 |
発音: | ユ・スンニョル |
日本語読み: | りゅう しょうれつ |
ローマ字: | Yu Sung-yeol |
人物
編集1893年、忠清南道に生まれる。本貫は江陵劉氏。1909年9月、韓国武官学校在校中に中央幼年学校予科3年に編入。1914年、陸軍士官学校第26期卒業。同期には洪思翊、李應俊らがいた。第3師団歩兵第6連隊で見習士官としての勤務を経て、1914年12月25日、少尉に任官[1]。1918年7月29日、歩兵中尉[2]。1923年、歩兵第76連隊附[3]。
1924年8月20日、任陸軍歩兵大尉[1]。1925年、歩兵第76連隊大隊副官[5]。
1926年3月11日、歩兵第76連隊中隊長[6]。
1927年3月15日、歩兵第76連隊附[7]。
1929年9月14日、歩兵第76連隊中隊長[8]。
1931年8月1日、歩兵第79連隊附[1]。同期の李應俊が勤務しており、第79連隊に転属したのは父の劉秉珏が宇垣一成総督に頼んだためであるという[9]。万宝山事件と満州事変が起きると、満州地域朝鮮人を日本の施策に呼応させるため、関東軍に2年ほど派遣された[10]。同年、混成第4旅団司令部附[11]。
1932年8月、第8師団司令部幕僚附[13]。
1932年8月8日、任陸軍歩兵少佐[14]。
1932年12月、毎日新報社主催で在満韓人の生活を紹介する「在満同胞実情紹介映画談及び講演会」に出席して講演した[10]。朝鮮総督府当局は在満韓人の劣悪な生活に同情するためとしたが、実際には満州侵略の正当性を一般人に宣伝するためのものだった[10]。
1937年3月1日、歩兵第77連隊附となり、新義州公立中学校と新義州公立商業学校に服務[15]。
1939年3月9日、任陸軍歩兵中佐[16]。
1940年8月8日、江本烈に改名[17]。
1944年3月1日、陸軍大佐[18]、一等給下賜[19]。平壌留守部隊長として勤務[10]。
太平洋戦争末期、第20師団衛生隊長に任命され、ニューギニア戦線で勤務した[10]。負傷兵後送を指揮している最中に病気となり入院した[10]。
終戦時は第20師団衛生隊長[20]。
1946年晩秋に帰国[10]。
1948年、韓国陸軍入隊。任大佐(軍番12442番)、護国軍第102旅団長。
1950年4月、第3師団長。
1950年7月、慶尚北道編成管区司令官。
1950年8月1日、慶尚南道地区戒厳司令官[21]。8月14日付で慶尚南道地区戒厳司令部は改編され、釜山地区戒厳司令官に就任[22]。
1950年8月26日、陸軍本部作戦参謀副長[23]。
1950年10月16日、平安北道戒厳民事部長[24]。
1950年11月12日、第1訓練所長[25]。
1951年1月10日、慶尚北道地区兵事区司令官[26]。
1952年9月10日、慶尚北道地区兵事区司令官[26]。
1953年5月16日、少将[28]。
1955年6月15日、陸軍本部民事監[29]
1956年、陸軍民事監を最後に予備役編入[10]。
叙勲
編集- 乙支武功勲章
- 忠武武功勲章
出典
編集- ^ a b c 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和11年9月1日調114コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正13年9月1日調237コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正12年9月1日調396コマ
- ^ 東京外国語学校一覧 昭和9年度185コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正14年9月1日調224コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.大正15年9月1日調216コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和2年9月1日調219コマ
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿.昭和5年9月1日調201コマ
- ^ 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 596.
- ^ a b c d e f g h 親日人名辞典編纂委員会 2009, p. 597.
- ^ “混成第4旅団職員表 昭和6年12月25日調” (PDF). アジア歴史資料センター. 2017年11月5日閲覧。
- ^ “8D(満洲派遣第8師団将校同相当官(准士官ヲ含ム)職員表 昭和7年4月30日調製)” (PDF). アジア歴史資料センター. 2017年11月5日閲覧。
- ^ “第8師団将校同相当官職員表(昭和7年8月8日調)” (PDF). アジア歴史資料センター. 2017年11月5日閲覧。
- ^ 官報.1932年8月9日5コマ
- ^ 官報 1937年03月02日15コマ
- ^ 官報.1939年3月10日8コマ
- ^ 官報 1940年12月16日10コマ
- ^ “第36号 昭和19年3月1日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. 2019年3月29日閲覧。
- ^ “第43号 昭和19年3月2日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. 2017年11月5日閲覧。
- ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1049頁。
- ^ “경남지구 계엄사령관에 유승렬대령이 임명” (韓国語). 国史編纂委員会. 2015年9月14日閲覧。
- ^ “경상남도 계엄사령부을 부산지구 계엄사령부와 마산지구 계엄사령부로 재편” (韓国語). 国史編纂委員会. 2015年9月14日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 100.
- ^ 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争第3巻 中共軍の介入と国連軍の後退』かや書房、2002年、171頁。
- ^ 박동찬 2014, p. 135.
- ^ a b 兵務庁 1986, p. 808.
- ^ 陸軍本部 1956, p. 195.
- ^ “元 少將, 中將으로” (朝鮮語). 부산일보. (1953年5月29日) 2019年10月22日閲覧。
- ^ 陸軍本部 1956, p. 295.
参考文献
編集- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 陸軍本部 編纂 (1956). 六・二五事變 後方戰史(人事篇). 陸軍本部軍史監室
- 兵務廳 (1986). 兵務行政史 上巻. 兵務廳
- 친일인명사전편찬위원회 編 (2009). 친일인명사전 2. 친일문제연구총서 인명편. 민족문제연구소. ISBN 978-89-93741-04-9
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
- “劉升烈”. 国立大田顕忠院. 2015年11月25日閲覧。
- “日本軍将校出身劉載興、父劉升烈に続いて国立大田顕忠院将軍墓域に埋葬” (韓国語). 歴史正義実践市民歴史館. 2016年1月10日閲覧。
軍職 | ||
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先代 金白一 |
大韓民国陸軍本部作戦参謀副長 第4代:1950.8.26 - 1950.10.24 |
次代 劉載興 |
先代 崔錫 |
大韓民国陸軍第1訓練所長 第4代:1950.11.12 - 1951.1.9 |
次代 李亨根 |
先代 金成泰 石主岩 |
大韓民国陸軍慶尚北道地区兵事区司令官 第3代:1951.1.10 - 1951.1.17 第7代:1952.9.10 - 1954.11.19 |
次代 李旬英 趙禧增 |
先代 金鍾甲 |
大韓民国陸軍第2訓練所長 代理:1952.8.1 - 1952.9.5 |
次代 李成佳 |