劉 勲(りゅう くん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。子臺[1]徐州琅邪国の人[2]。妻は王宋山陽郡の司馬氏。兄が1人(名は不明)[3]。従弟に劉偕[4]。甥(兄の子)に劉威[5]。『三国志』に伝はないが、各所に記録がある。娘が一人いる[6]

劉勳
後漢
征虜将軍・華郷侯
出生 生年不詳
徐州琅邪国
拼音 liú xūn
子臺
主君 袁術曹操
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生涯

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孫策に敗れる

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袁術の故吏であり、曹操とも旧知であったという(『三国志』呉志「破虜討逆伝」、『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。

中平年間には沛国建平県長を務めていた(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。

揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。

劉勲は皖城を本拠としていた。建安4年(199年)6月[7]に袁術が死ぬと、劉勲は孫策を頼って落ち延びようとする、袁術軍の大将の楊弘張勲らを捕虜とし、財宝を略奪し、その軍勢も吸収したという[8]

同じ頃、皇族の流れを汲む豪族の劉曄は、賊の鄭宝を討ってその配下を降参させて軍勢を手に入れていたが、資力などの問題から自身で軍勢を率いることを望まなかったため、劉勲に鄭宝の軍勢を預けることを申し出てきた。劉勲は不審がったが、劉曄が説明をすると納得し、鄭宝の軍勢をも吸収した(『三国志』魏志「劉曄伝」)。

こうして劉勲は長江淮河の一大勢力へと発展した。しかし急増した兵を養えず、慢性的な兵糧不足に悩むことになる。

孫策はかねてから劉勲の勢力に恐れを抱き、表向きは友好関係を取り繕いつつ、攻撃の機会を狙っていた。あるとき、孫策は劉勲に贈り物と共に謙った内容の手紙を送り、豫章郡の上繚の賊を共に討つことを提案してきた。孫策の意図に疑問をもった劉曄は反対したが、劉勲は兵糧確保をする必要もあり、上繚へ出兵した。しかし、やはりその隙に本拠である皖城を孫策に攻め取られてしまった。劉勲は江夏太守黄祖の支援を受けて西塞山において、孫策と戦ったが完敗したという(『三国志』魏志「劉曄伝」、『三国志』呉志「破虜討逆伝」)[9]

曹操に仕える

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その後、劉勲は親交のあった曹操を頼り、北方へと落ち延びて行った。曹操は劉勲を迎え入れ列侯に取り立て、劉勲を議論や軍事の場に参加させたという(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。

曹操が魏公に推挙されたときの上奏文に名を寄せた群臣達の中に、征虜将軍・華郷侯の劉勲の名がある(『三国志』魏志「武帝紀」が引く『魏書』)。

また曹丕との宴席に、奮威将軍の鄧展と共に招かれていたことがあるという[10](『三国志』魏志「文帝紀」が引く『典論』序)。

やがて劉勲は曹操との旧縁を頼みに、次第に思い上がるようになり、しばしば法令を犯し誹謗の言葉を吐くようになっていった。また、劉勲の部下や食客にも法令を犯す者が多かった(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。

劉勲は河内郡に駐屯していたが、あるとき、食客らが郡境で法令に違反することがあった。劉勲は当時広平の県令であった司馬芝に手紙を送り、手心を加えるようそっと依頼したが、司馬芝は手紙に返事も返さず、法に従い処置したという(『三国志』魏志「司馬芝伝」)。

また、楊沛は法に厳しい処分を執ると、かねてより評判であった。あるとき、楊沛がの令に赴任してくるという話を聞いた劉勲は、同様に驕慢な振る舞いが多かった曹洪と共に楊沛を恐れ、わざわざ一族や子弟に知らせて身を慎むよう注意させたという(『三国志』魏志「賈逵伝」が引く『魏略』)。

こうした一族や食客の数々の法令違反行為を、李申成という人物が告発したことがきっかけとなり、劉勲は罪に問われて処刑された。連坐として一族の劉威も免職となったという(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。

脚注

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  1. ^ “魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』”. 『三国志』. 12. "『魏略』曰:勳字子臺、琅邪人。中平末、爲沛國建平長、與太祖有舊。" 
  2. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』
  3. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史になったことがあるという。
  4. ^ 『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
  5. ^ 『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』。豫州刺史であった父の死後、政治を執ったことがあるという。
  6. ^ 『三国志』「方技伝」が引く『華佗別伝』。それによれば、20歳近くになる劉勲の娘は左足の膝に腫れものができたため、華佗の治療を受けてわずか7日で完治したと記されている。
  7. ^ 『後漢書』「献帝紀」
  8. ^ 『三国志』呉志「破虜討逆伝」。なお、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』によると、袁術の従弟の袁胤と女婿の黄猗は、曹操を恐れて寿春を離れ、袁術の棺と袁燿ら袁術の一族や配下を連れて、劉勲に保護を求めたという)。
  9. ^ なお、以下のような異聞が紹介されている。劉勲は従弟の劉偕を豫章太守の華歆の下に派遣し食糧の援助を申し出た。しかし、華歆の方でも兵糧が不足していたため、郡の役人を劉偕につけて、海昏・上繚の現地の有力者から3万石の米を供用させようとしたが、劉偕は現地に赴いて1ヶ月で数千石しか得られなかった。劉偕は劉勲に手紙を送り、現地に軍勢を送って食糧を強奪することを提案した。劉勲は自ら軍を率いて海昏に向かったところ、現地の有力者は食糧を持ち出して逃亡し、劉勲は結局何も手に入れることはできなかった。たまたま、孫策は江夏太守の黄祖を討つために遠征していたが、劉勲が本拠である皖城を留守にしていることを聞き、孫賁孫輔らの別働隊を彭沢に派遣し、劉勲の軍勢を待ち伏せさせると共に、皖城を急襲し直ちに降服させ、袁術の残した兵士と物資、それに袁術と劉勲の妻子の身柄を確保した。孫策は捕虜を呉に送りとどけると共に、廬江太守の後任に汝南の李術を任命し皖城を守らせた。劉勲は待ち伏せした孫策の別働隊に敗れ、楚江に入った後、尋陽から徒歩で置馬亭に逃げ延びたところで、本拠の皖城が孫策の手に落ちたことを知り、西塞山に身を潜めた。後に劉勲は山中にある流沂城に拠り、荊州劉表に急を告げ、さらに江夏太守の黄祖に援軍を求めた。黄祖は子の黄射に水軍5000を与えて援軍を差し向けたが、孫策は西塞山の劉勲を攻撃しこれを打ち破り、劉勲は劉偕と共に北の曹操の下へ逃れたという。(以上、『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』
  10. ^ そのときの劉勲は「平虜将軍」と記されている。

参考資料

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  • 『三国志』
  • 『後漢書』