劉 世明(りゅう せいめい、生年不詳 - 541年)は、中国南北朝時代官僚は伯楚。本貫彭城郡彭城県叢亭里。

経歴

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劉僧利の子として生まれた。北魏に仕えて、奉朝請から蘭陵郡太守・彭城国内史に転じた。正光6年(525年)、徐州刺史元法僧が反乱を起こすと、世明は南朝梁に送られた。梁の武帝は世明に封爵を加えようとしたが、世明は固辞して受けなかった。世明はたびたび帰国を願い出て、武帝に許された。帰国すると、孝明帝に召し出されて、諫議大夫となった[1]

孝荘帝の末年、世明は征虜将軍・南兗州刺史に任じられた[1]中興元年(531年[2]、城民の王乞徳[3]が世明に迫って、南兗州ごと梁に帰順させた[1]。武帝は南兗州を譙州と改め、世明をその刺史とした[4]。武帝は世明を開国県侯に封じ、征西大将軍・郢州刺史に任じ、儀同三司の位を加えたが、世明はやはり受けず、帰国を強く請願した。武帝は世明の意が固いのをみて、自ら楽遊苑で餞別した[1]

世明は帰国すると、郷里に帰って再び入朝せず、狩猟を楽しむ生活を送った。興和3年(541年)、家で死去した。驃騎大将軍・儀同三司・徐州刺史の位を追贈された[1]

子の劉禕は、武定末年に冠軍将軍・中散大夫の位を受けた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 魏書』劉芳伝
  2. ^ 『魏書』廃出三帝紀 中興元年の条による。世明の梁への帰降のことは『梁書』武帝紀下 中大通四年春正月癸未の条にも見える。
  3. ^ 『魏書』廃出三帝紀 中興元年の条では「王乞徳」、同書劉芳伝では「王乞得」とする。
  4. ^ 『梁書』武帝紀下 中大通四年春正月癸未の条

伝記資料

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