出雲国山代郷遺跡群
出雲国山代郷遺跡群(いずものくにやましろごういせきぐん)は、島根県松江市大庭町・山代町・矢田町一帯に広がる、古代出雲国意宇郡山代郷の正倉や寺院跡からなる遺跡群。1980年(昭和55年)に正倉跡が「出雲国山代郷正倉跡」(いずものくにやましろごうしょうそうあと)の名で国の史跡に指定されたが、その後、北側にある来美廃寺(くるみはいじ)が『出雲国風土記』に見える北新造院(きたしんぞういん)跡と確定し2002年(平成14年)に追加指定されたため、名称も「出雲国山代郷遺跡群 正倉跡 北新造院跡」に変更された[1][2]。八雲立つ風土記の丘の一部として遺跡の整備・保護が進められている。
正倉跡
編集出雲国意宇郡にあった山代郷の正倉とされる掘立柱建物群の遺構。1978年(昭和53年)から始められた発掘調査の結果、飛鳥時代以降の律令期に用いられた大規模な正倉跡とされた。
東西100メートル・南北150メートル以上の敷地[3]の中央部に掘立柱建物が見られ、そこが管理施設の跡であったと推定されている。東端には桁行4間・梁間3間の総柱建物3棟が南北に均等に配置され、倉庫群の約30メートル西側や中央部を挟んだ西側にも同様の倉庫跡が複数確認され、建物26棟、柵列3条・溝状遺構5条・土坑2か所が確認されている[4]。
北新造院跡
編集北新造院跡は、以前から来美廃寺の呼称で知られ『出雲国風土記』にて現地の豪族である日置君目烈が建立した「新造院」に充てる説が存在していたが、本格的な調査が実施されたのは1996年(平成8年)のことであった。調査の結果、金堂及びその本尊とみられる三尊仏が置かれた痕跡、更に金堂周辺を取り巻く伽藍の跡が確認され、7世紀末から11世紀末に火災で廃寺になるまで存続した寺院で、『出雲国風土記』の記す「新造院」跡であることが確定した。なお、『出雲国風土記』には同じく現地の豪族である出雲臣弟山が建立した「新造院」も存在しているため、そちらの跡地と推定される四王寺跡を「南新造院」(正倉跡の東側にある。現在、島根県指定史跡)と称し[5]、こちらを「北新造院」と称した。『出雲国風土記』の記述を裏付ける仏教遺跡の存在が確定したことから、前述の通り、2002年(昭和14年)に国の史跡に追加指定された。
脚注
編集- ^ 第18回文化審議会文化財分科会議事要旨
- ^ 文化スポーツ部 文化財課. “国指定文化財”. 松江市. 2023年3月14日閲覧。
- ^ 「出雲国山代郷正倉跡」『日本歴史大事典』
- ^ 「出雲国山代郷正倉跡」『島根県大百科事典』
- ^ 島根県ホームページ:山代郷南新造院(四王寺跡)
参考文献
編集- 三宅博士「出雲国山代郷正倉跡」(『島根県大百科事典』(山陰中央新報社、1982年))
- 勝部昭「出雲国山代郷正倉跡」(『国史大辞典 15』(吉川弘文館、1996年) ISBN 978-4-642-00515-9)
- 勝部昭「出雲国山代郷正倉跡」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523001-6)
- 『山代郷北新造院跡』(島根県教育委員会、2007年)
外部リンク
編集座標: 北緯35度25分59.5秒 東経133度05分16.1秒 / 北緯35.433194度 東経133.087806度