八田広子
八田 広子(はった ひろこ、1946年4月9日 - )は、日本の政治家。元・日本共産党参議院議員(1期)、日本共産党中央委員会名誉役員。八田 廣子、八田 ひろ子とも。
八田 広子 はった ひろこ | |
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生年月日 | 1946年4月9日(78歳) |
出生地 | 日本 愛知県名古屋市 |
出身校 | 愛知県立瑞陵高等学校 |
前職 |
三井信託銀行従業員 参議院議員 |
所属政党 | 日本共産党 |
公式サイト | 八田ひろ子のブログ |
選挙区 | 愛知県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1998年7月26日 - 2004年7月25日 |
選挙区 | 岡崎市選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1987年4月30日 - 1991年4月29日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1975年 - 1983年12月2日 |
来歴
編集愛知県名古屋市出身。名古屋市立名城小学校、名古屋市立前津中学校、愛知県立瑞陵高等学校卒業[1]。
三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に就職。勤め始めてすぐに「女の子は1時間前に出勤して掃除するものだ」と上司に言われ、男女差別に矛盾を感じたのが政治の道に進むきっかけだったという[2]。
1975年、岡崎市議会議員選挙に日本共産党公認で出馬し、初当選[3]。3期連続で当選[4]。新日本婦人の会の支部役員を務める[5]。
1983年12月2日に岡崎市議を辞職[6]。同年12月18日執行の第37回衆議院議員総選挙に旧愛知4区から立候補し落選[7]。1986年7月6日執行の第38回衆議院議員総選挙も落選[7]。
1987年3月、田中定雄県議(岡崎市選挙区)が病にたおれる。県議選告示日の2週間前であったが、党西三地区委員会は3月18日、田中の後継として八田の擁立を決定した[8][9]。売上税反対を前面に打ち出し、候補擁立を見送った社会党の支持層も吸引。4月12日に行われた選挙で順位2位で初当選。岡崎で初の女性県議が誕生した[10][11]。
1991年の県議選で落選[12]。以後、岡崎市は一度も女性県議を当選させていない。1995年の県議選でも落選。
1998年7月12日執行の第18回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区(改選数3)から日本共産党公認で立候補[13]。自民党が公認を出した大木浩と浦野烋興が票を食い合い、ともに落選[13]。その結果として八田が得票数3位で初当選した[13]。
2004年7月11日執行の第20回参議院議員通常選挙は落選[14]。
2007年7月29日執行の第21回参議院議員通常選挙は落選[14]。
2009年8月30日執行の第45回衆議院議員総選挙に愛知12区から立候補し、落選[15]。
政策
編集脚注
編集- ^ “八田ひろ子の政策とスケジュール”. 八田ひろ子のブログ (2011年1月22日). 2019年6月12日閲覧。
- ^ 『中日新聞』1986年6月24日付朝刊、県内版、11面、「衆院選 私が候補者 <3>」。
- ^ “市政だより おかざき No.304” (PDF). 岡崎市役所. p. 2 (1975年5月15日). 2020年3月8日閲覧。
- ^ “岡崎の選挙記録 - 岡崎市議会議員選挙” (PDF). 岡崎市ホームページ. 2021年12月12日閲覧。
- ^ 『東海愛知新聞』1987年4月13日、1面、「喜びの県議当選者」。
- ^ 『岡崎市議会史 下巻』岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日、762頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』222頁。
- ^ 『東海愛知新聞』1987年3月19日、1面、「田中氏が出馬を断念 後継に八田氏 岡崎市の県議選で共産党」。
- ^ 『中日新聞』1987年4月5日付朝刊、県内版、12面、「県議選激戦区ルポ <上> 岡崎市 自民4人乱立 地盤綱引き、骨肉の闘い」。
- ^ 『東海愛知新聞』1987年4月13日、1面、「県議選 続々勝ち名乗り 八田・内田氏ら当選 岡崎 豊田・東加茂、西尾は現職勝つ」。
- ^ “岡崎の選挙記録 - 愛知県議会議員選挙” (PDF). 岡崎市ホームページ. 2021年12月12日閲覧。
- ^ 『愛知県議会史 第十四巻』愛知県議会、2010年12月10日、266頁。
- ^ a b c 『国政選挙総覧:1947-2016』474頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧:1947-2016』475頁。
- ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』227頁。
- ^ 『しんぶん赤旗』2004年5月16日
- ^ 夫婦別姓選択性導入などを盛りこんだ民法改正案推進を求める申し入れ 2000年9月29日