全州和約
全州和約(ぜんしゅうわやく)は、1894年6月10日(太陽暦)に、朝鮮政府と甲午農民戦争の指導者全琫準の間で結んだとされる和約。ただし、根拠となる一次史料は発見されていない。
概要
編集甲午農民戦争に参加した呉知泳の東学史-朝鮮民衆運動の記録が初出とされる。全琫準の「判決宣告書原本」には14箇条(以下)が記述され、計27箇条あるとされている。
転運所革罷事、国結不為加事、禁断歩負商人作弊事、道内還銭旧伯既為捧去則不得再徴於民間事、大同上納前各浦口潜商貿米禁断事、洞布銭毎戸春秋二両式定銭事、貪官汚吏并罷黜事、壅蔽上聡売官売爵操弄国権之人一并遂出事、為官長者不得入葬於該境内且不為買畓事、田税依前事、烟戸雑役減省事、浦口魚塩税革罷事、洑税及宮畓勿施事、各邑倅下来民人山地勒標偸葬勿施事
全琫準らが以上を誓願した史料はあるが、朝鮮政府がこの誓願を受け入れたという史料は東京朝日新聞(明治28年5月7日)に掲載された「全琫準の裁判判決文」の「~二十七ヶ条をその筋に執奏せんことを乞ひしに招討使は直に之を承諾したるより被告は五月五六日頃悉く其衆を散じ各自職業に就かしめ~」が元になっており(同日の東京日日新聞にも掲載あり)、これを受け入れて実際に政府が改革したという史料は発見されていない。つまり「和約」として成立した根拠がない。また朝鮮政府が日本に全州和約の締結をもって撤兵を依頼した史料も発見されていない。
全琫準供草(五三七~八項:外部リンク参照)には
問 昨年有呈節目於洪大将云, 果然耶供 然矣
問 呈節目之後, 有除貪官之徴験耶
供 無別徴験
問 然則洪 大将, 豈非罔民耶
供 然矣
問 然則百姓何更無称冤耶
供 其後洪 大将, 在京, 更何称冤
日本語訳
問:昨年、洪大将(招討使である洪啓薫)に節目(弊政改革案)を提示したのは本当か?供:はい、そうです
問:節目を提示した後、汚職官僚を排除する様子はありましたか?
供:別段、排除する様子はありません
問:洪大将は人民を無視したのか?
供:はい、そうです
問:では、なぜ民衆は(無視したことを)受け入れているのか?
供:その後、京城に戻った洪大将を「不正者」と呼びようがなかった
と記されており、招討使である洪啓薫が和約を受け入れたフリをした様子が書かれている。また、歴史評論140号(1962年4月号)に掲載された「全州和約と弊政改革案(朴宗根)」(外部リンク参照)にも同様の論文が記されているが、『「全州和約」は政府軍の欺瞞によるもので、農民軍にとっては、大きな失敗であったことを全琫準も認めている』としている。
何故か、根拠も史料も不明であるが、文献によっては農民軍が朝鮮政府と和約を結び、全州を撤退したと記しているものもある[1]。
脚注
編集- ^ 『新版 世界各国史2 朝鮮史』山川出版社、2000年、242頁頁。ISBN 978-4634413207。「農民軍は全州を包囲した政府軍と激戦を展開していたが、清日両国軍出兵の報を聞いて、六月十日、政府側と「全州和約」を結んで全州を撤退した。」