兗州(えんしゅう)は、中国にかつて存在した

初出は『尚書禹貢篇で、九州のひとつに挙げられた。黄河済水のあいだの地であり、黄河の九の支流が集まって雷夏沢を形成したとされる。

前漢のとき、兗州刺史部が置かれ、東郡陳留郡山陽郡済陰郡泰山郡城陽国淮陽国東平国を管轄した[1]

後漢の兗州は、陳留郡・東郡・東平郡任城郡・泰山郡・済北郡・山陽郡・済陰郡を管轄した[2]

西晋の兗州は、陳留国濮陽国・済陰郡・高平国任城国・東平国・済北国・泰山郡を管轄した[3]

北魏の兗州は、泰山郡・魯郡高平郡・任城郡・東平郡東陽平郡を管轄した[4]。南朝では南兗州が僑置された。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、兗州の属郡は廃止された。606年大業2年)、兗州は魯州と改称され、滑州は兗州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、兗州は東郡と改称され、魯州は魯郡と改称された[5]

622年武徳5年)、徐円朗を平定すると、魯郡は兗州と改められた。742年天宝元年)、兗州は魯郡と改称された。758年乾元元年)、魯郡は兗州の称にもどされた。兗州は河南道に属し、瑕丘曲阜乾封泗水龔丘任城金郷魚台萊蕪の11県を管轄した[6]

1118年政和8年)、北宋により兗州は襲慶府に昇格した。襲慶府は京東西路に属し、仙源奉符・泗水・・鄒・萊蕪の7県と萊蕪監を管轄した[7]

のとき、兗州は山東西路に属し、嵫陽・曲阜・泗水・寧陽の4県を管轄した[8]

のとき、兗州は済寧路に属し、嵫陽・曲阜・泗水・寧陽の4県を管轄した[9]

1385年洪武18年)、により兗州は兗州府に昇格した。兗州府は山東省に属し、直属の滋陽・曲阜・泗水・寧陽・鄒・・金郷・魚台・城武の11県と済寧州に属する嘉祥鉅野鄆城の3県と東平州に属する東阿陽穀汶上寿張平陰の5県と曹州に属する定陶の2県と沂州に属する郯城の2県、合わせて4州23県を管轄した[10]

のとき、兗州府は山東省に属し、滋陽・曲阜・泗水・寧陽・鄒・滕・嶧・陽穀・汶上・寿張の10県を管轄した[11]

1913年中華民国により兗州府は廃止された。

脚注

編集
  1. ^ 漢書』地理志上
  2. ^ 後漢書』郡国志三
  3. ^ 晋書』地理志上
  4. ^ 魏書』地形志二中
  5. ^ 隋書』地理志中および地理志下
  6. ^ 旧唐書』地理志一
  7. ^ 宋史』地理志一
  8. ^ 金史』地理志中
  9. ^ 元史』地理志一
  10. ^ 明史』地理志二
  11. ^ 清史稿』地理志八