児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日明治4年11月7日) - 1954年昭和29年)2月13日)は、日本実業家

児玉謙次

人物

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香川県高松市生まれ[1]。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校一橋大学の前身)卒。

会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命[2])などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した[3]

1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。

栄典

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脚注

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  1. ^ 児玉謙次 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年8月11日閲覧。
  2. ^ 『官報』第3795号、昭和14年8月29日。
  3. ^ 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
  4. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

外部リンク

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先代
梶原仲治
横浜正金銀行頭取
第12代:1922年 - 1936年
次代
大久保利賢
先代
(初代)
中支那振興総裁
初代:1939年 - 1943年
次代
高嶋菊次郎
先代
岡崎勝男
終戦連絡中央事務局総裁
初代:1945年 - 1946年
次代
吉田茂