児島屯倉
概要
編集『日本書紀』巻第十九によれば、556年、欽明天皇の時代に、蘇我大臣稲目宿禰(そが の おおおみ いなめ の すくね)らを備前(きびのみちのくち)の児嶋郡(こじまのこおり)に派遣して設置し、葛城山田直瑞子(かずらき の やまだ の あたい みつこ)を「田令」(たつかい)とした、とある[1]。
備前国児島郡は、岡山平野の南、瀬戸内海に大きく突き出した半島の要衝であるが、平城京木簡に「備前児島郡三家郷」とある地で、半島の東北端にあたる。朝廷は、吉備国の中心部の岡山平野の心臓部に近く、なおかつ内海交通の要衝地であるこの地を重視して、屯倉を設置したものと思われる。
欽明天皇30年(569年)には、瑞子の副官として、白猪胆津(しらい いつ)が配属された[2]。
敏達天皇12年(583年)、百済から日羅を招いた際に、一行は児島屯倉に落ち着き、ついで難波館に迎え入れられている[3]。