児島丸(こじままる。兒嶋丸とも表記)は、旧鉄道院(後の鉄道省宇高航路に在籍した客船。

船名は古事記にある地名からとられており、児島は岡山県児島郡地方のことである[1]

「児島丸」およびほぼ同型の「玉藻丸」は元は山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が建造した船である[2]。長崎三菱造船所で建造[3]。1902年8月11日起工[4]。1903年1月24日進水[4]。3月12日竣工[4]。3月18日、尾道・多度津間に就航[2]

「玉藻丸」は総トン数223.50トン、長さ120.00フィート、幅19.50フィート、深さ9.78フィートであった[5]。旅客定員は就航時は一等12名、二等36名、三等98名であったが、1919年には二等39名、三等316名となっている[6]

1906年、山陽鉄道は国有化される[2]

1910年6月に宇野線が開通すると尾道・多度津間航路は廃止となり、「児島丸」は宇野・高松間航路に移された[7]

1916年12月26日、牛ノ子礁で座礁[8]

1920年5月16日から18日、山陽線不通に伴い宇野・尾道間で臨時運行される[9]

1923年6月15日、宇野港に係船される[10]

1924年3月1日、「玉藻丸」とともに瀬戸内連絡急行汽船に売却された[10]

参考文献

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  • 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
  • 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年
  • 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年

脚注

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  1. ^ 『宇高航路50年史』44-45ページ
  2. ^ a b c 『宇高航路50年史』258ページ
  3. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
  4. ^ a b c 『創業百年の長崎造船所』527ページ
  5. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336ページ
  6. ^ 『宇高航路50年史』44ページ
  7. ^ 『宇高航路50年史』8ページ
  8. ^ 『宇高航路50年史』260ページ
  9. ^ 『宇高航路50年史』262ページ
  10. ^ a b 『宇高航路50年史』263ページ